戸田忠次

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 享禄4年(1531年
別名 通称:三郎右衛門
 
戸田 忠次
戸田忠次
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 慶長2年6月23日1597年8月6日
別名 通称:三郎右衛門
戒名 泰平寺殿英巌玄雄大居士
→英巌寺殿傑秀玄雄大居士[1]
墓所 田原市長興寺
主君 徳川家康
氏族 田原戸田氏
父母 父:戸田光忠
兄弟 忠次清勝勝則忠勝
藤田安広 娘
清光尊次松平重忠正室
テンプレートを表示

戸田 忠次(とだ ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将田原戸田氏2代当主。戸田光忠(忠政)の嫡男として誕生した。通称は三郎右衛門。

三河国田原(現在の田原市田原町)の国人戸田氏の支流。光忠の兄戸田康光田原城を中心に三河湾沿岸を支配していた。康光は天文16年(1546年)に松平竹千代(後の徳川家康)を駿河国へ護送する役を今川義元から任せられたがこれに背き、尾張織田信秀に売り飛ばして怒りを買った。田原城に攻め込んだ今川軍によって田原戸田氏は滅ぼされたが、光忠は脱出して岡崎に逃れた。

略歴

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI