戸田銀次郎
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系譜
生涯
弘化年間、父忠敞が斉昭宥免運動に加担した咎で、隠居を命ぜられると小普請組となる。嘉永5年(1852年)、大番組、嘉永6年(1853年)には使番に転任し、江戸詰となる。安政2年(1855年)におきた安政の大地震の発生により父が圧死すると、同年12月に家督を相続し、目付に昇進した。
安政5年(1858年)7月、格式用人上座江戸御側用人となり、同年9月には水戸詰に転任し、翌年には学校掛となる。万延元年(1860年)閏3月、大番頭上座用達、同年10月には格式大寄合頭上座に上る。文久元年(1861年)、『大日本史』編輯懸。その後、藩主・徳川慶篤に随い江戸-水戸間を往復する。
同3年(1863年)2月に藩主慶篤上洛に随行し、主君の側にあって側近としての重きをなした。この時期、全国的な尊皇攘夷の風潮が高まっていたこともあり、銀次郎は時節の変化にも触れることとなった。同年9月には大砲製造懸兼務となり、翌年の元治元年(1864年)3月に水戸藩尊皇攘夷派が筑波山に挙兵した、水戸天狗党の乱が起きると、銀次郎もこれに同調の動きを見せた。4月、用人免職となるが、6月に再勤し、藩内佐幕派の頭目・市川三左衛門らの南上に対して、これに処罰を加えるなど、尊皇対佐幕の闘争の中で奔走することとなった。銀次郎は領内平定のため、尽力するが、政争のため、8月に免職となる。
慶應元年(1865年)、表向きは市川ら諸生派に同意を装い、江戸に上るが、抗争の沈静化のために動く中で市川らとの関係も微妙となり、尊皇派を中心とした党派を組んだという名目で御用長屋に禁固される。7月、同所にて病没した。享年37[1]。