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戸石城

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戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡[1]。

別名 砥石城
城郭構造 山城
天守構造 不明
概要 logo戸石城 (長野県), 別名 ...
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戸石城
(長野県)
戸石城(砥石城)
戸石城(砥石城)
別名 砥石城
城郭構造 山城
天守構造 不明
主な城主 村上義清、真田幸隆、真田昌幸
廃城年 元亀元年(1570年)
遺構 郭、石積、土塁、堀切
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯36度25分28.124秒 東経138度17分29.417秒
戸石城の位置(長野県内)
戸石城
戸石城
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地勢

東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の戸石城などを含めた複合城郭。

歴史

築城年代は不明だが、 天文10年(1541年)の海野平の戦いの頃には村上氏の東信濃攻めの拠点となっていたと考えられている[2]。海野平の戦いでは、甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退し、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れた[2]。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。

砥石城は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目に位置し、塩田荘など小県郡の村上領と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。

天文10年(1541年)6月、甲斐国で武田信虎が嫡男の晴信(信玄)により追放される事件が発生する。信虎は信濃の諏訪氏と同盟していたが、天文9年(1540年)に海野棟綱の要請で上野の関東管領・上杉憲政が佐久・小県郡へ出兵し、諏訪頼重は武田・村上両氏に断ることなく上杉氏と和睦し、領地の割譲を行った。晴信はこれを盟約違反として、天文11年6月に諏訪へ出兵すると頼重を滅ぼし、諏訪郡を制圧した。

その後、晴信は村上義清や信濃守護・小笠原氏と敵対し、佐久・小県両郡へ出兵する。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いにおいて村上方に大敗した。

天文19年(1550年)8月、晴信は砥石城攻めを行ったが、10月1日に城の包囲を解いて退却するも、村上勢の追撃を受けて敗退する(戸石崩れ(砥石崩れ))[2]。この時の状況については『勝山記』に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。天文20年(1551年)5月26日に真田幸隆が陥落させた[2]。『高白斎記』によれば幸綱の砥石城攻略は「乗取」と記しており、調略を用いたと考えられている。砥石城を含む幸綱の本領であった真田郷の地を与えられた。天文22年(1553年)に晴信は砥石城の改修を命じ、幸綱は小山田虎満とともに城普請を行っている。

その後、1582年まで砥石城は資料に登場しないが、1582年頃の砥石城は伊勢山と呼ばれ、真田昌幸が家臣に出した書状から、昌幸が上田城築城前の一時期は拠点としていたことがうかがえる[3]。

武田氏滅亡後の天正13年(1585年)8月2日・8月20日には、上野国沼田郡・吾妻郡を巡る争いから、三河国の徳川家康と、武田家の滅亡後に自立した真田昌幸との間で上田合戦が起こる。徳川勢は甲府から新府城(山梨県韮崎市中田町中條)を通過して上田城へ向かい、昌幸は越後国の上杉景勝と連携して徳川勢と戦った。一方、徳川家康は相模国の北条氏直と連携しており、真田領は両勢が衝突する地点となった。この戦いで、砥石城のほか上野の岩櫃城・沼田城などは上田城の支城として利用された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸は上田城においてこれを迎撃し、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、9月5日に城を明け渡させている。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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