房孺復

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房 孺復(ぼう じゅふく、756年 - 797年)は、唐代官僚本貫河南府緱氏県[1]

房琯の庶子として生まれた。幼くして狡猾で、7・8歳で文章を理解しつづることができた。成長すると放蕩傲慢で、情欲のままに行動した。20歳のとき、淮南節度使陳少遊に召し出されて従事となった。陰陽家や巫覡を多く招き、30を過ぎれば必ず宰相になると揚言させていた。建中4年(783年)、徳宗奉天に避難すると、包佶揚州で税賦を管掌していたことから、陳少遊はこの税賦を奪おうとした。包佶が逃亡すると、孺復は陳少遊の意を受けて略奪に向かったが、包佶がすでに江南にわたっていたため、引き返した。陳少遊が死去すると、孺復は浙西節度使の韓滉に召し出されてその幕下に入った[2][3]

長兄の房宗偃が左遷先の嶺南で死去すると、その柩が揚州に到着したが、孺復は弔おうとしなかった。孺復ははじめ鄭氏を妻に迎えたが、鄭氏を憎み卑しんで、多くの妾婢を囲った。鄭氏の保母が孺復を諫めると、孺復はまず棺を用意して家人を集め、生きたまま保母を埋葬した。鄭氏が産褥にある3・4日のあいだに船に乗せたため、数日後に鄭氏は風疾で死去した。孺復の悪名はまだ朝廷に知られず、杭州刺史に任じられた。のちに孺復は台州刺史の崔昭の娘を後妻に迎えたが、崔氏は嫉妬深く、孺復の別腹の子ふたりを一夕のうちに杖殺し、雪中に埋めた。観察使がこのことを奏聞すると、詔により事実が調査され、孺復は罪に問われて連州司馬に左遷され、崔氏とは離別させられた。長らくを経て孺復は辰州刺史となった[2][4]貞元10年(794年)、容州刺史・容管経略使に転じた[5]。孺復はひそかに崔氏と往来しており、上疏して再婚したいと請願し、徳宗に許可された。2年あまりして、また崔氏と離別したいと上奏した。貞元13年(797年)8月29日、死去した。享年は42[2][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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