手塚太郎
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司法省法学校卒業後、司法省御用掛になった後、各地の地方裁判所に勤務する。大阪地方裁判所の検事正時代に、1886年の関西法律学校(関西大学の前身)の創立に関わり、1892年まで同校で法律大意・民法・経済学などを講じた[1]。名古屋控訴院の検事長時代に、1909年の中京法律学校(中京法律専門学校の前身)の創立に関わる。大津地方裁判所検事正、函館地方裁判所検事正なども務め[2]、1910年3月から1年間欧米諸国に派遣された[3]。1913年4月長崎控訴院長に就任し、翌年8月佐世保捕獲審検所長官を兼ねた[3]。
1925年に退官した後は兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)で過ごす。1932年11月19日、腎肺炎のため自宅で死去[3]。満70歳(享年71)。
家族・親族
栄典・授章・授賞
著書
- 『日本民法人事編釈義・日本法例釈義』
- 『法学通論』
- 『法律学 通信教授』
- 『現行商法警察必携 明治二十六年五月三日手塚検事正演説筆記』
- 『仏国財産法売買法問題』
- 『商法詳解』
- 『商事会社法釈義』(鶴見守義との共著)
