連合国軍占領下の日本において教員にも労働基本権が認められると、1947年に日本教職員組合(日教組)が結成されて、教育労働者という概念が議論されるようになった。しかし、この概念の含意には、どのような観点からどういった側面を強調するかに揺れがあり、日教組の運動の中でも時期によって、また立場によって様々な意味合いがこの言葉に込められた[4]。
当初は、従前の教師を聖職と捉える見方への反省に立った「教育労働者を一般の労働者と同一視する」見解や、「教育労働の特殊性を認めるが結局は教師=労働者なのだ」とする見解が優勢であったが、そうした中でも「教師の教育者性を労働者性と融合させようとする」立場もあった[4]。公務員の労働権制限を目的とした1948年の政令201号以降は、一時的にはこれに対する強い反発があったものの、結局、日教組は「職能資質の向上や自主的な教育内容の充実を目指すという方向に方針転換し」、「教育労働者ということばが日教組の基本方針の中に盛り込まれた」[4]。