散髪脱刀令
明治初期の日本の法令
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布告の内容
影響
当時は幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあった。
散髪脱刀令は「髪型を自由にして構わない」という布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかったが[1]、1873年(明治6年3月)には明治天皇が散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。
一方で、島津久光・忠義親子や榊原鍵吉のように布告以降も髷を結った者もいた。忠義は髷姿で大日本帝国憲法発布式典に出席している。また、政府の重鎮であった岩倉具視は、1871年(明治4年11月)に岩倉使節団を率いた際にも、横浜を発った時は髷を結ったままだった。その後、シカゴで散髪をしている[2]。
しかし、改革推進派の県令(県知事)が着任した地域では髷が厳しく取り締まられた[1]。 1873年(明治6年3月)敦賀県(現在の福井県)で起こった越前護法一揆は廃仏毀釈への抵抗であるとともに、断髪令や太陽暦の採用、学校教育での洋学など新政策への反対も理由としてあったとされる。
散髪脱刀令は男性の髪型を対象とした法令であったが、「女子も散髪すべきである」と誤解され女性が男性同様の短髪にすることがあったため、1872年5月11日(明治5年4月5日)に東京府が「女子断髪禁止令」を出した。

