文学界 (明治)
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創刊時の同人は、星野天知(当時31歳)・戸川秋骨(22歳)・島崎藤村(21歳)・平田禿木(20歳)らで、間もなく馬場孤蝶(24歳)・上田敏(19歳)が加わり、北村透谷(25歳)・樋口一葉(21歳)・戸川残花(38歳)、遅れて、田山花袋・松岡国男・大野洒竹らも書いた。経営・編集には星野天地が当たり、弟の星野夕影が手伝った。北村透谷が同人だったかには論があるが、初期の重要な執筆者ではあった。
彼等の多くが、プロテスタントの洗礼を受け、或いは影響を受け、西欧の文化を覗いていた。巌本善治の明治女学校の講師を勤め、巌本の『女学雑誌』 に書いてもいた。そして、神のしもべを勤めるより己の哀歓に忠実でありたい文学青年たちに、キリスト教的人間観で女性の啓蒙に取り組む巌本は次第に煙たく、巌本も、傘下で勝手に書かれるのは迷惑で、文学界創刊の運びになったと、いえる。
- 『女学雑誌』からの分家ではなく、女学雑誌社の投稿雑誌、『女学生』(1890年5月 - 1892年12月)の後身とする説明もある。
過渡的に、初め2号の誌名は『女学雑誌文学界』で、4号までの発行所は女学雑誌社で、以降、文学界雑誌社発行となった。創刊号の巌本の『文章道』は、同人に不評だった。
『文学界』は、尾崎紅葉の硯友社派、坪内逍遙の早稲田派・森鷗外の千駄木派・幸田露伴の根岸派などとは馴染めぬ、ロマン主義派の産声だった。創刊号の2500部は売り切れた[1]。
1894年5月、北村透谷を喪った。
島崎藤村は『早春』や『飯倉便り』の中で文学界を回想し、大意次のように三区分している。
- 中世から近代初めの古典の探求に踏み出した、第1期。
- 宗教と芸術との融和に苦しんだ。北村透谷の『人生に相渉るとは何の謂ぞ』『内部生命論』、平田禿木の『吉田兼好』など。
- キリスト教的世界観の圧迫から脱け出し、ルネサンス探求に向かった、第2期。
- 上田敏の『美術の翫賞』などの芸術至上主義。戸川秋骨の『文学復興期の事を想ふ』などのルネサンス研究。樋口一葉の諸作。
- 仲間が思い思いに歩み出した、第3期。
- 島崎藤村の(のちに若菜集にまとめられた)新体詩群。田山花袋、松岡国男らの寄稿。
仲間が思い思いに歩み出し、1897年8月、11月、12月号を休刊し、1898年1月号で終わった。
樋口一葉を文学界に仲介したのは、三宅花圃という[2]。1893年3月、平田禿木が先ず一葉を訪ね、『雪の日』を3月号に載せた。戸川秋骨、馬場孤蝶も仲良くなり、適当に鼻の下を長くしたらしい。ただし、一葉の全作品が『文学界』に載ったのではない。