文珠九助 From Wikipedia, the free encyclopedia 文珠 九助(もんじゅ くすけ、享保10年(1725年) - 天明8年1月3日(1788年2月9日))は、江戸時代中期の一揆指導者[1]。 山城伏見の刃物鍛冶、町年寄[1]。 天明5年(1785年)伏見奉行の小堀政方の苛政に反対し、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋權兵衛の7人と共に江戸の寺社奉行へ越訴した(伏見町民一揆、天明伏見騒動)[2]。結果政方は職を免じられたが、九助を含む7人は吟味中に病死する[1][2]。死後、九助は無罪となった[3]。 明治20年(1887年)7人の義民を祀る「伏見義民事蹟」が御香宮神社の境内に建てられた[2]。碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である[2]。毎年5月18日には伏見義民碑保存会により慰霊祭が開催されている[2]。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『文珠九助』 - コトバンク 1 2 3 4 5 京都観光Navi:伏見義民事蹟、2018年10月25日閲覧。 ↑ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『丸屋九兵衛』 - コトバンク Related Articles