斎藤秀一
From Wikipedia, the free encyclopedia
明治41年、山形県東田川郡山添村(現:鶴岡市櫛引地区)泉流寺の長男として生まれる。鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)、1931年駒澤大学文学部東洋文学科卒業。大学在学中、日本エスペラント学会、カナ文字会、秋田雨雀らのソビエトの会の会員となる。
大学卒業後、朝日村大泉小学校教員となり、大平や八久和などの分校に勤めていたが、軍国主義教育に批判的であり、児童にローマ字を教えていたことが問題視され、赤化教員の疑いで鶴岡警察署に1度目の逮捕。4日後に釈放されるも、この検挙を理由に1932年に教師を解雇された[1]。
1934年には言語問題のガリ版雑誌『文字と言語』を発行。ローマ字論の田中館愛橘、方言論の東条操、石黒修、高倉テルなど第一線の言語学者から寄稿を得た。また1937年には全文エスペラント語の雑誌「Latinigo」(ラティニーゴ、意味はローマ字化)を刊行。中国の魯迅、葉籟士などと交流し中国、インドシナ、インドネシアなどのアジアのローマ字運動の論考を集めた。また『東京方言集』などを自費出版する。一時、東北帝国大学の図書館に勤務。
しかし、国外との文通、反戦傾向の言動ゆえ、1938年に治安維持法違反で特高課により3度目の検挙、秋田刑務所に服役する。その後、肺結核にかかり、治癒が絶望となって釈放されるも、程なくして腹膜炎を併発し、1940年に病死した。