和泉国鶴原村(現・大阪府泉佐野市)の文人として知られる。地元岸和田および京都で文学・漢学を学び、のち岸和田藩命により緒方洪庵の塾(適塾)に入って蘭医学を学んだ。文久2年(1862年)4月24日付で適塾に入門したことが記録されている。
明治元年(1868年)11月、判司事に任命された。同月、新政府の巡察使・松岡康毅とともに、東北信諸藩の監察のため小諸に来訪したとされる。この小諸での監察を契機として、長岡藩脱走人・竹山定右衛門の隠匿事件をめぐり、同年11月8日に主席家老牧野八郎左衛門らへの斬罪を含む多数の処断が行われたと伝えられる。
この事件の首謀者は改革派の加藤六郎兵衛で、11月7日に松岡・新川一行が小諸に到着し本陣に宿泊、家老らを招いた後、加藤が改革派が検察使への贈賄や密告を通じて牧野ら家老一派を斬殺し藩政を掌握。しかしのち明治2年(1869年)3月に藩士が脱出して暴政を密告した結果、新政府が佐々木高行らを派遣し調査を実施、収賄の事実も判明して新川去病は岸和田藩に禁錮となった、とする叙述がある。
明治2年(1869年)3月13日には、監察司知事・宮原大輔が判事の新川去病を伴って高山へ到着し、直ちに高山県庁へ入ったと記される。
のちに貝塚近木町議員および貝塚町長を務めたとされる。