新憲法解散

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新憲法解散(しんけんぽうかいさん)とは1947年3月31日衆議院解散の俗称。

1946年に誕生した第1次吉田内閣は賃上げを求める労働運動問題に直面する中で労働組合の一部には経済闘争だけでなく政治闘争の傾向を帯びるものも出てきたことから、1947年1月1日吉田茂首相がラジオ放送で労働運動指導層の一部を不逞の輩と呼んだ[1]。この発言が労働組合陣営を強く刺激するところとなり、全官公庁共同闘争委員会が1月18日2月1日午前0時からの全国一斉ゼネスト(二・一ゼネスト)に突入すると宣言した[2]。しかし、ゼネスト突入前日の1月31日ダグラス・マッカーサーGHQ総司令官からスト禁止令が出され、ゼネストは回避された[2]

ゼネストが回避された1週間後の2月7日にマッカーサーGHQ総司令官は吉田首相に「余の信じるところによれば総選挙の時期に至ったと思う」旨の書簡を送り、早期の解散総選挙を行うべきことを勧告した[3][4]。これを受けて、吉田内閣は2月17日の閣議で前年11月3日に公布されていた日本国憲法が施行される5月3日までに、一切の選挙を完了すべきことを決定した[3]これにより、4月25日に衆議院議員総選挙が実施されることになった[3]

第23回衆議院議員総選挙の結果、日本社会党が143議席を得て第一党となり、自由党は131議席で第二党となった(この他、民主党が124議席、国民協同党が31議席など)[5]。総選挙後の第1回特別国会で吉田内閣は総辞職し、社会・民主・国協の三党連立による片山内閣が発足した[5]

マッカーサーは選挙結果について「日本国民は共産主義的指導者を排し、圧倒的に中庸の道を選んだ」として片山内閣について好意的な声明を発表した[5]

その他

  • 歴史学者の袖井林二郎はこの解散劇について「ゼネスト必至という状態に追い込まれた吉田内閣の政治責任を総司令官が自分で問うのではなく、日本国民の手にゆだねるというのも、統治者として賢明なやり方であった」と総括している[3]

脚注

参考文献

関連項目

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