新楽金橘

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新楽 金橘
にいら きんきつ
新楽金橘の肖像
人物情報
生誕 (1860-05-22) 1860年5月22日
静岡県浜松市栄町
死没 1936年
東京都
居住 東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 静岡師範学校
配偶者 きみ
両親 父:新楽儀之助
子供 6人
学問
研究分野 漢学
称号 正六位
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新楽 金橘(にいら きんきつ、万延元年4月2日1860年5月22日〉 - 昭和11年〈1936年〉)は、日本の漢学者教育者著述家私塾「余力学舎」(現在の海城中学校・高等学校の前身)の設立をはじめ、日本の近代教育のために力を尽くした。

1860年、静岡県士族の家に生まれる。教育者を志し、1877年に静岡師範学校を卒業した[注 1]

1885年には芝区三田(現:港区三田)に私塾「余力学舎」を創立。新楽一人で漢文英語を教え、生徒数は順調に増えていった。「余力学舎」は後に「東京英華学校」「海軍兵医学校予備校」と改称し、海軍兵学校海軍軍医学校などへ卒業生を送り出した。1891年、新楽は教育指導に専念するため、海軍少佐古賀喜三郎に学校経営の一切を引き継ぐ。このとき新たに設立された「海軍予備校」が、現在の海城中学校・高等学校の起源である[1]

その後新楽は、故郷静岡の豆陽中学校校長に任ぜられたのを嚆矢として、各地の教育機関の校長や教授を歴任した[3]。この期間に新楽は、学者として「先秦時代文法研究」など権威ある[4]論文を発表しただけでなく、生徒のためにも「点註十八史略読本」や「左伝抄:点註」、「英文和訳五百題」などの教科書を執筆し、広く愛読された[3]

新楽は温厚な性格で、生徒への思い入れが深かった[3]。公務の余暇を割いて講演に赴くなどして、教育方法の研鑽に努めていた[5]。特に私立刈田中学校校長時代には、創立間もない学校の設備を充実し、校風を醸成し、熱心に生徒の訓育に取り組んだために、学校は宮城県下第一の模範中学として成長し[6]、新楽は文部省より教育功労者として表彰されるに至った[2][7]

年譜

著作

脚注

参考文献

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