新袖ヶ浦線
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大外輪線網は袖ヶ浦火力発電所から東富士変電所(現:新富士変電所)までの約430kmに及び、当線はその一部である[1]。
当線の基本調査は1970年2月に開始された。その後、基本ルート、電気設計、鉄塔基礎設計などを実施してきた[2]。この過程で従来多く採用されていた27万5000V送電ではなく50万V送電を選択し、1972年3月には当時同様に計画中だった福島東幹線などと同時に、導体仕様を従来50万V送電で採用してきたACSR410mm24導体方式に代えてTACSR610mm24導体方式とし、送電容量を660万kWに倍増した[3]。
また、従来50万V送電で採用されていた二段階昇圧方式(沿岸から10km程度内陸までは27万5000Vの送電区間を挟む案)は送電効率の問題から避けられ、1972年8月には、臨海直接昇圧とする旨を決定したことが明らかにされた[4]。これに伴い、終点の新佐原開閉所(当時)に50万V-27万5000V、100万kVAの変圧器を設置して新佐原変電所に衣替えすることも決められた。1973年4月19日には通産省の認可を取得し、工事を着工。東京電力は工事管理事務所1ヶ所、地区工事事務所2ヶ所、他用地関係事務所等を配置した[2]。
工事を請け負った業者は12社で、『電気新聞』には第一工区が関電工であることが明らかにされている[2]。
1974年4月には建設工事も最終段階となり、連日社内検査を実施している状況であった[5]。
上記の目的から、当線の運転開始は袖ヶ浦火力発電所1号機の建設と連動したものであった[5]。
1974年4月末には関係者待望の50万V昇圧が実施され仮合格した[6]。
新規採用技術
- 上述のように当線は同社として初の臨海直接昇圧方式を採用し、1974年1月の昇圧が予定された[1]。これに伴い、本線起点の袖ヶ浦火力発電所構内に建設された変電所も、塩害を避けるため世界初の屋内式変電所とされた。東京電力はこの変電所の建設の為、1972年10月関電工に予報発注を行った。機器据え付けにはアンカーボルト、天井、作業用照明等の制約を受けることとなり、クレーン車の移動は最小限とせざるを得ず、隣接機器との安全距離確保のため作業手順も複雑を極めたという[7]。
- 塩害対策の為、基本的には過絶縁方式が採られたが、一部がいし洗浄装置を備えたところもある[8]。
- 安全性向上のため鉄塔昇降機の本格採用した。東京電力は当線建設前に試作品を京葉試験線、新栃木東関東線において試用して実用性を確保したと判断し、当線にて本格採用に繋がっている[5]。
- 作業員の昇塔用に垂直ガイドレール、腕金移動用に水平ガイドレールが設置された[5]。
