日代
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略歴
- 永仁2年(1294年)、生まれる[7][8][注釈 1]。
- 元弘2年/正慶元年(1332年)、日興新六人を定む。筆頭に列せられる[9][10]。
- 元弘3年/正慶2年(1333年)2月7日、日興、重須にて示寂(88歳)[11][12]。重須に石経を埋む(『日満記』)[13]。
- 元弘4年/正慶3年(1334年)1月7日、日仙と上蓮坊において問答す(仙代問答)[7][14]。
- 興国元年(1340年)8月、大輔阿闍梨日善・大進阿闍梨日助等と奏聞。
- 興国4年(1343年)、西山に法華堂(後の西山本門寺)を創す[15]。
- 興国5年(1344年)7月17日、太夫阿闍梨日尊の造佛につき三浦阿闍梨日印より問われる。8月13日、三浦阿闍梨日印に答う。
- 正平11年(1356年)5月7日、由比初犬麿「日任」を付弟と定む。
- 正平15年(1360年)6月30日、法華宗要集『法華本門宗要抄』を偽書と断ず[16]。12月13日、宗祖の真筆本尊を由比阿闍梨日任に相伝す。
- 正平21年(1366年)4月、佐渡国小関法華縁起を記す。
- 応永元年(1394年)4月18日、示寂(101歳(もしくは98歳))[17][18]。
仙代問答
仙代問答(せんだいもんどう)とは、元弘4年/正慶3年(1334年)正月7日、上条大石寺上蓮坊にて、法華経の方便品を読むか読まないかについて応酬された、日代(読む)と本六・上蓮房日仙(読まない)の問答[19][20]。重須の地頭石川実忠の提案により、大石寺第4世日道が裁定し収拾された(『大石記』)[21]。その勝敗については、次節以降のとおり、複数説がある。
日代勝利説
先ず日仙が、迹門である方便品を読むということは本迹勝劣義[注釈 3]に反するから、読んではいけない、と言う。
それに対し日代は、宗祖日蓮の遺文を引用し、先師[注釈 4]の「方便品を読むべし」の教えに反しているのに、読まないとなぜ言うのだ、と反駁する。
これを聞き日仙は、それでは方便品に成仏の道が示されているのか、と返す[注釈 5]。
日代は、与・奪・破の三義に分け、浅い「与」では利益を得られるが、より深い「奪」・「破」では利益は得られない[22][23][注釈 6]、と答える。
この答えに対し日仙は、利益が得られないのならば読んでも意味がない、と問う。
その時日代は、意味がないということは、日蓮や日興が我々に読ませて下さったのは誤りか・『大覚抄』にあるお言葉は誤りか、と責める。
これに日仙閉口した。
(日満記『方便品読不之問答記録』)[24]
日仙勝利説
日仙は、方便品は迹門であるから読まない、とする。
日代は、日興以外の六老僧の主張と同じく[注釈 7]、本門と迹門に差異はないから迹門で利益が得られるから読むべき、とした。
これに対して日仙は、迹門・方便品は一切読まないという考え方は、門流から離反した人[注釈 8]の考え方と同じであると断じたが、当日の問答は日仙が勝った〔ママ〕。
両記録への指摘
『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』への指摘は次のとおり。
後世の評価
後世の評価は、次のとおり。
重須退出の理由
仙代問答の後、日代は重須を去ることとなるが、その理由は、以下のように諸説ある。
- 重須本門寺が火災で失われ、その責任を問われた(『大石記』)[31]。
- 日代は日頃から「五十六品」という教えを主張していたが、これは日興・日目の本意に背くものであり、仙代問答に負け、本迹迷乱の廉(かど)で追放された(『日仙日代問答記録』)[32][33][34][25][19]。
- 重須の地頭石川実忠が同族出身の日妙に住職を任せたいと思った[35]。
- 重須の地頭石川実忠が日代・日妙のうち日妙に帰依し、重須を日妙に譲ろうと考えた[36]。
- かねてより重須の地頭石川実忠の間に不和を生じており、仙代問答が契機となった[17] 。
- かねてより日妙との間に不和を生じており、仙代問答が契機となった[17] [36]。