日和佐城
From Wikipedia, the free encyclopedia
(徳島県) | |
|---|---|
|
模擬天守 | |
![]() | |
| 別名 | 渭津城 |
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 層塔型3重3階・模擬天守昭和53年築 |
| 築城主 | 日和佐肥前守 |
| 築城年 | 戦国時代 |
| 廃城年 | 不明 |
| 遺構 | なし |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | 模擬天守、模擬石垣 |
| 位置 | 北緯33度43分47.2秒 東経134度32分9.9秒 / 北緯33.729778度 東経134.536083度座標: 北緯33度43分47.2秒 東経134度32分9.9秒 / 北緯33.729778度 東経134.536083度 |
元亀年間(1570年~1573年)、阿波細川氏の細川真之の被官であった日和佐肥前守が長曾我部元親の侵攻を防ぐために築城したとされる[1]。
城主だった肥前守は、1577年11月17日に長宗我部氏の海部進攻の主将香宗我部親泰の大軍の前に降伏した。その際に肥前守は討死し、弟の権藤が相続して肥前守を名乗った。その後は元親軍に協力したが、豊臣秀吉の四国征伐で元親が土佐一国に安堵されると、1585年の蜂須賀家の進駐により、権藤は日和佐城から大阪の天満に移って浪人生活を送った。1596年に元親の招きで土佐の赤岡へ移り住み、名を浜五郎兵衛と改めた[2][1][3]。この時に、日和佐城は廃城になったとみられている[1]。
その後、蜂須賀氏が阿波を治めるようになると、阿波藩藩主、蜂須賀家政に帰住をすすめられ、赤岡で庄屋職を務めていた五郎兵衛こと日和佐氏は、家督を次男に譲り、三男を伴って阿波に帰国した。そして石高50石を知行する士分に取り立てられ、1639年11月に病死したという[4][3]。

