日景忠男
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出生と活動
台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれる。実家は台湾の大病院で、裕福な少年時代を過ごし、台湾の名門台湾大学法学部を卒業後、東京大学大学院修士課程、東京大学大学院博士課程に進学。その後は芸能プロダクションや飲食店の運営など、実業家として活動した。
JKプランニング時代
1968年、都内のスナックでアルバイトをしていた俳優志望で、当時ファッションモデルの仕事をしていた16歳の沖雅也と出会う(一説には、元々、日景は、沖の出生地、大分県で暮らす九州帝国大学経済学部出身で実業家の楠宗生氏と顔見知りで、楠氏が、日景に、中学校の卒業式を待たずに15歳で東京に家出した息子である沖の面倒を見て欲しい、と頼んだといわれている)。その後間もなく、沖が日活で銀幕デビューをし、人気俳優への道を歩む中、沖の才能、人柄、スター性を確信して、芸能プロダクション・JKプランニングを設立し、社長兼マネージャーとして働いた。日景は、16歳でスナックのバーテンダーをしていた沖と初めて会った時、「九州大学医学部教授の孫がなぜこんなところに」と驚き、沖に、「こんなところにいてはいけない」と語ったという。
世間の一部で、沖の日活デビューを日景のプロダクション設立によるものとの誤解が存在するが、実際は、日活デビューが先であり、その後にJKプランニングが設立された。沖は、上京から半年も経たないうちにアルバイト先に訪れたオスカープロモーション設立前の古賀誠一にスカウトされ、古賀が沖を日活関係者に紹介したことから映画『ある少女の告白 純潔』で銀幕デビューし、美貌と演技力の両方を兼ね備えた人気スター俳優への道を歩み始めた。
当時はLGBTへの理解が今日ほど進んでいなかった時代であり、日景も又、世間の偏見と差別に耐えなければならなかった。日景は、自身のLGBTとしてのアイデンティティーを表に出さず、沖のスター俳優としてのキャリアを全面的に支える裏方に徹したという。
デマの引き金になった養子縁組
1975年、沖雅也の実父である楠宗生氏が49歳で心筋梗塞で突然逝去したことに伴い、父親と離婚して間もなく再婚した実母と10代の頃から接触がほとんどない等、事実上身寄りがなくなった沖と、日景は養子縁組をし、戸籍上、親子関係となった。この件は、後に、テレビのワイドショーや週刊誌が作り上げたデマに発展。芸能界には、売り出し中のタレントとマネージャーの同居が珍しくない中、日景がLGBTであることから日景と沖の養子縁組をゲイの偽装結婚であるかのような根拠がないデマが、ゴシップメディアを通じて広がった。
「涅槃で待つ」の真意
1983年6月28日早朝、双極症を患っていた沖雅也が宿泊先の京王プラザホテルの47階バルコニーから飛び降り自殺をするという衝撃的な出来事が起きた。遺書の内容がワイドショー等で明らかにされ、そこに書かれていたとされる「おやじ、涅槃で待つ」という言葉が流行語のようになるが、正確には、「おやじ、涅槃で待つ」ではなく、「おやじ、涅槃で待ってる」であった。当時、日景が「これは俺にです」と間髪を入れずに語ったため、その言葉が、あたかも日景と沖の絆を物語るかのような印象を世間に与えたが、日景に宛てた遺書は別に存在する等、全体のバランスと照らし合わせながら日本語の文脈から冷静に読み直すと、「待ってる」人間は沖ではなく、すでに他界した沖の実父、楠宗生氏が、涅槃で息子である沖を「待ってる」との解釈が存在する。その裏付けとして、沖は、実父の突然の逝去で「おやじが亡くなって初めて俺のおやじへの愛の深さがわかった」と宗生氏の葬儀の席で人目もはばからず号泣し、その直後から精神的に不安定になる等、沖にとって実父の存在は沖自身が驚くほど大きかった。沖は、「もう二度とおやじを離さない」と言って宗生氏の遺骨を故郷の大分から東京へ持ち帰り、後日、神奈川県小田原市の酒匂川に隣接する寺に自ら墓を建て、頻繁に供養に訪れた。
デマ・「沖雅也はゲイ」を払拭
沖の死後、日景がLGBTであることが世間に知られたことから、沖と日景が同性同士の事実婚関係にあったかのように仕向ける週刊誌の一方的な作り話やデマが飛び交う中、日景自身は、沖を「普通に女が好きな男でしたね」とインタビューで語り、メディアが作ったデマを否定した。事実、日景は、沖と共演し、沖が家族ぐるみで交流していた女優の吉沢京子や、日景自身が親しくしていた坂口良子を、「沖のフィアンセに」、と考えていたことを明らかにしている。
「沖がゲイではないことを知ってもらうため」という執筆目的により、沖の死の翌年である1984年に、著書、『真相・沖雅也』(ワニブックス刊)を出版。内容は、タイトルに相違して、むしろ「真相・日景忠男」と呼べるものであった。著者である日景自身の半生が綴られていることから、世間の偏見と差別の中で生きなければならなかった当時のLGBTの苦悩や葛藤を知る情報源、としての立ち位置に存在する書籍といえた。
タレント活動
本の出版後、それまで伏せていたLGBTとしてのキャラクターを前面に押し出したタレント活動を開始。新宿二丁目で喫茶店シンドバッドの経営の他、テレビのコメンテーターとしても活動した。
晩年と逝去
長らく実業家として悠々自適の時代が続いたが、不況の波に呑まれる形でシンドバッドは倒産。その後は風俗案内店に勤めるものの、2005年、覚せい剤取締法違反の現行犯で[2]1]、又、2008年には暴力団幹部と共謀して前述の風俗案内店の女性社長を恐喝した疑いで逮捕され[3]2][3]、翌年1月覚せい剤取締法違反の罪で、東京地方裁判所から懲役1年2月(求刑懲役2年)の判決を言い渡された[4]4]。
2015年2月に、持病の肝硬変の悪化により享年78歳で逝去した(週刊新潮2016年3月3日号)。
LGBTが故のメディアの罪
- 1983年6月、沖雅也死亡時の記者会見で放った「もういいじゃないですか」という日景の言葉は、ビートたけしがバラエティ番組でモノマネをし、一部で流行語となったが、遺族という立場にある日景の心情を軽んじた、コンプライアンスリテラシーを欠く行為であった。
- 日景がLGBTであることから、当時の週刊誌の多くが、沖と日景の養子縁組の理由を無理やり同性愛に結びつける記事を流し続けた。このメディアの愉快犯的なゴシップ姿勢は、複雑な家庭環境の中、父母の愛情に恵まれず、心に傷を抱える子供時代を経た後、実父、楠宗生氏の突然の逝去で傷心状態にあった23歳の沖が、熟慮の末に、楠木正成の正当な血脈、宮の陣楠氏の末裔という名家であった楠の姓を捨てて、家出後上京して食べるのにも事欠いた16歳の自身を、家族のようにサポートし続けた恩人であり、育ての親であった日景の養子になるという選択に踏み切ったデリケートな背景への配慮が全くなされない状況下で行われたものであった。
- 1995年放送の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』の妖怪退治企画では、日景は、保健室に迷い込んだ美少年を待ち受ける「妖怪ねはん」の名の下に、ピンクのネグリジェ姿で松本人志や山崎邦正と共演した。それは、双極症という重い心の病により31歳の若さで自殺した沖雅也が、当時の通説では日景に宛てたとされる本人の遺書の一部、「おやじ、涅槃で待ってる」をお笑いネタにするという、故人の尊厳や遺族の気持ちを踏みにじり、又、心の病気に対する無理解と無神経が生んだコンプライアンスリテラシーに反する行為であったが、人権意識を欠いた当時のTV界ではスルーされた。番組が日景に与えた役は、昔のLGBTのお決まりであったステレオタイプな滑稽キャラであり、当時のLGBTに対する偏った扱い方を物語るものであった。この低俗なレベルのお笑い化は、今尚、日景をネタにしたXやYouTubeで見受けられる他、二枚目スター俳優、沖雅也のブランドイメージを傷つけ、実力派俳優としての功績を後回しにする世間の風潮を長らく招いた。
エピソード
- LGBTへの理解が現在ほど進んでいなかった当時の新宿2丁目の様子やLGBT文化を伺い知ることができるニッチなコメンテーターとしても日本テレビなどに出演した。1998年2月20日、当時有森裕子の夫であったガブリエル・ウィルソンが記者会見にて「アイワズゲイ」と語ったことについて、日景は自身がコメンテーターを務めていたワイドショーの席で、「私たちの世界ではアイワズゲイ(過去はゲイであったが、現在はストレート)ということはありえない」といった趣旨の発言をした、とされている。
- 日景は、沖の人柄を「純白、ピュア、無垢、透明」と称するなど、東大の建築科卒という高学歴のインテリで、演劇評に造詣が深かった芸術肌であることから、詩的な言語表現が得意であったとされている。
- 2014年9月28日、女優の吉沢京子は、日景の人柄を、「本当に沖、沖、って言って沖さんのことを売り出すのに一生懸命でしたし、すごいいい人でしたよ」、と、映画監督・脚本家の柏原寛司と共に人形町三日月座「Base KOM」にて開催された「第四回沖雅也研究会」で語っている。
テレビ出演
- スーパージョッキー(1984年〜、日本テレビ)(芸能情報担当、愛称は『美少年評論家』)
- 北野ファンクラブ(1994年、フジテレビ)ゲスト審査員出演
- ダウンタウンのガキの使いやあらへんで(1995年、日本テレビ)
- ダウンタウンのごっつええ感じ(1996年5月26日、フジテレビ)