天文11年(1542年)、従五位下に叙爵した。
天文13年(1544年)、征夷大将軍・足利義晴の加冠によって元服し、その偏諱を受けて、資条から晴資に改名する。また、従五位上・侍従に叙任された。
天文15年(1546年)、弱冠11歳にして弁官(権左少弁)に任ぜられると、天文16年(1547年)正五位下・左少弁、天文17年(1548年)正五位上と昇進する。
天文19年(1550年)に五位蔵人を兼ね、12月には右中弁に昇任された。この年の5月に烏帽子親であった足利義晴が病死すると、夏頃から晴資は狂気のために駿河国へ下向する。
天文20年(1551年)、富士川を渡っていた際に水中で没した。自害させられたとの噂があったという[1]。