日野武雄
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大分県別府市出身。本籍は速見郡南由布村。6人兄弟の末っ子で、中学卒業後に現役志願し、騎兵上等兵として日露戦争に従軍。曹長だった1910年11月、陸軍騎兵実施学校を優等卒業し、銀時計を下賜される[2]。
1917年(大正6年)10月26日、准尉候補者1期生として陸軍士官学校を卒業し、シベリア出兵に参加。少尉任官後も騎兵第12連隊に所属したが、1922年より軍馬補充部に出向し、北海道の川上支部や宮崎県の高鍋支部部員として各地で軍馬の供給・育成に取り組んだ。1926年、陸軍大尉で予備役。
以降は郷里に戻り在郷軍人会で活動していたが、のち満州に渡り、私兵を束ねて少将を自称していたという[3]。
1932年(昭和7年)に満洲国軍が正式に成立すると、少校に任官され、軍政部職員。
同年9月7日、松花江付近にて大川支隊[注釈 1]の残余を編入し、「日野支隊」もしくは「松花江支隊」と称する独立騎兵支隊を編成[4][5]。日系軍官最初の部隊長となる。のち、日野支隊は正式に騎兵第10団として間島地区警備司令部隷下に入り、以降は義勇軍の討伐戦を指揮した[6]ほか、中央訓練処3期生の実習受け入れも行った[7]。
同年10月には盤石県烟筒山で帰順交渉に失敗した三江好および姚殿臣の兵を、吉林特務機関の浜田大尉率いる鉄道守備隊と挟撃[4]。1934年(康徳元年)7月上旬より混成第7旅隷下に入り、同年9月まで騎兵第10団300名を率いて安図の匪賊を殲滅[8]。また1936年(康徳3年)6月には、特選隊を編成し、再び敦化・安図の匪賊を殲滅。9月2日、軍政部大臣于芷山より感状を授与される[9]。
1937年11月より三江討伐作戦に参加。1938年7月、新設の混成第6旅旅長[10][注釈 2]に任ぜられるが、2か月後の9月28日、東安鎮より39名を率いて汽艇で現地指導に回っていたところ、饒力河と小佳河が合流する「西風嘴子」と呼ばれる地点にて対岸より姜克智に指揮された東北抗日聯軍第7軍第1師の一隊の待ち伏せを受け死亡。
参謀司調査課の発表によれば、胸に2発の銃弾を受けながらも自らも戦死者から取った軽機関銃を手当たり次第に猛射していたが、頭に1発の致命傷を受け、軽機に手をかけたまま亡くなったという。他に同乗者3名が死亡。
年譜
- 1902年(明治35年)12月:小倉の騎兵第12連隊に入営
- 1905年(明治38年)2月5日:上等兵、日露戦争出征
- 1910年(明治43年)11月:陸軍騎兵実施学校を優等卒業(曹長)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)8月5日:シベリアに派遣
- 1920年(大正9年)
- 1922年(大正11年)8月 軍馬補充部川上支部部員(~1925年05月02日)[15][16]
- 1925年5月2日:軍馬補充部高鍋支部部員[17]
- 1926年(大正15年)3月1日大尉、正七位[18]
- 1932年(大同元年)
- 7月10日:騎兵少校、軍政部職員(庶務)[19]
- 9月10日:騎兵上校、独立騎兵支隊長(のち騎兵第10団団長)
- 1934年(康徳元年)7月上旬〜9月上旬:安図の匪賊討伐戦を指揮
- 1938年(康徳5年)
- 5月5日:少将
- 7月:混成第6旅旅長
- 9月28日:戦死
- 10月10日:中将追贈