星井巌
日本の教育者 (1905-1996)
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経歴
ドイツ帝国時代のアーヘンに生まれ、長じてイエズス会に入って神父となり、1935年に来日した[3]。
1939年には、兵庫県西宮市で、遠藤周作の母・郁と知り合っている[6]。当時から学識豊かな人物と評されており、母語のドイツ語のほかに英語、フランス語、スペイン語、ラテン語、ギリシア語に通じているとされていた[4]。1937年にアメリカ合衆国に渡ったが、1940年に再び来日した。
1941年、ヘルツォークは上智大学文学部教授となり[6]、国際法を担当した[3]。1944年には著書『神の光栄』が遠藤郁の翻訳で出版された[4][5]。
1948年、雑誌『カトリック・ダイジェスト (Catholic Digest)』日本版の編集長を務めることとなったヘルツォークは[4]、大学を出たばかりの遠藤周作に編集補助の仕事を与えた[6]。後に1953年にフランス留学から帰国した遠藤周作に編集長職を譲るが、雑誌は程なくして廃刊となってしまい、それに激怒してヘルツォークと口論となった遠藤郁は脳溢血で急死したとされる[4]。
1955年、遠藤周作と岡田順子の結婚式をヘルツォークが司式したが、事前の公教要理の際に、順子がヘルツォークと女性秘書との関係を察し、出向くのをやめるというできごとがあった[4]。
1957年、ヘルツォークは、上智学院修道院長、上智大学学監の要職にあったが、突如失踪し、上智学院に解雇されて[4]、還俗し[6]、日本人女性と結婚した[3][7]。1958年には日本に帰化し、以降は富士銀行、安田信託銀行に勤務しつつ、文明批評などを発表した[3]。
おもな著作
- (遠藤郁 訳)神の光栄 : カトリック敬虔の教義的基礎、上智学院出版部、1944年.
- (T・F・M・アダムスとの共著)T.F.M. Adams, Iwao Hoshii: Financial History of the New Japan, Kodansha America, Inc, 1972.
- Iwao Hoshii: Responsible Parenthood (World of Sex volume three), Japan Library, 1987.
- Peter J. Herzog: Japan's Pseudo-Democracy, New York Univ Press, 1993.