本国は下野国、生まれは武蔵国の旗本で、家禄六百俵(うち四百俵は御足高)に加えて御役料三百俵を与えられ、神田元誓願寺前および根津権現脇に二ヶ所の拝領屋敷を持ち、さらに牛込抱屋敷を本宅とした。
家は代々勘定方の名門であり、祖父・星野某は富士見御宝蔵番、父・一郎兵衛は幕府財政の要職である御金奉行を務めた。成美も天保12年に成島図書頭手附・書物御用出役として登用され、文久2年に御勘定組頭、慶応元年に勘定吟味役へと累進した。勘定吟味役より慶応2年(1866年)12月25日には勘定奉行並に昇進し、慶応3年10月1日に禁裏付となり、あわせて兵庫開港の事務取扱も担当した。再び同年12月9日に勘定奉行並へ復し、慶応4年2月9日まで務め、のち勤仕並寄合となった 。