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星野行則

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星野 行則(ほしの ゆきのり、1870年 - 1960年)は、明治期から昭和期の日本の実業家、翻訳家、聖職者、伝道師、教育者。広岡浅子(大同生命創業者、日本女子大学校設立発起人)を支え、加島銀行と大同生命の中心的な人物として活躍し、加島銀行東京支店長・本店専務理事、大同生命常務取締役などを歴任した[1][2]。また、フレデリック・テイラーの科学的管理法を日本に初めて紹介し、日本能率協会とトヨタのカンバン方式の基礎を創った日本の能率増進研究の最初の提唱者として知られるほか[2]、大阪ロータリークラブ創立者・初代会長や大阪YMCA学校部校長、大阪YMCA名誉理事として大阪財界の社会奉仕活動の中心人物として活躍した[1][3][4]。聖公会の信徒[5][6]

人物・経歴

1870年(明治3年8月28日)、肥前島原藩星野行敬の2男として南高来郡島原村(現・長崎県島原市)に生まれる[2]。

学問を志し、和漢の学を修め、ついでに欧米の科学動向を調査するなどした[2]。

家は明治維新で衰退し、貧しい生活を余儀なくされ中でキリスト教に傾倒し、大阪に出て、大阪・三一神学校(現・聖公会神学院)を卒業[1]。大塚惟明も、星野とともに同校の卒業生である[7]。

聖公会の伝道師となり、島根県浜田に派遣されて活動する。1891年(明治24年)5月には、同地にて浅野勇(後の桃山中学校長、松陰高等女学校校長)が感化を受けて、受洗した[7]。

その後、キリスト教主義の実業家になることを目標にし[1]、1895年(明治28年)、米国に渡り、商業上の視察を行い、1897年(明治30年)に帰国すると、廣岡商店(加島屋)に入った[2]。この加島屋に入社し広岡浅子の元で働くことになったのは、妻の須磨子が関係した。星野が渡米したのち、日本にひとり残された須磨子は、生計を立てるため、京都府立高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)の寮監となった。その女学校に広岡浅子の娘・亀子が通っており、浅子は須磨子の人柄に惚れ込み、夫も立派な人物であると考え、帰国後に広岡家を助けてもらうおうと、招聘したのであった[1]。

業務に精勤し、大いに主人に信頼されるところになり、次いで、加島銀行に入行すると、同行の東京支店長となり、その後本店専務理事に就いたほか、加島貯蓄銀行の監査役も務めた[2][1]。星野は銀行や商売の経験がないままに、加島銀行に入行したが、宗教の道を志していた人格により、信用を重んじる銀行界で一目を置かれたが、同時に星野の進歩的な考えは、浅子が加島屋を近代的企業に変貌させる大きな助けとなった[1]。

大同生命が設立されると、推薦されて常務取締役を務め、大阪電球会社の監査役も務める[2]。

1930年(昭和5年)4月に、大阪YMCA学校部校長に就任[3]。

その他の功績

フレデリック・テイラーの科学的管理法を日本に紹介した第一人者

フレデリック・テイラーの『学理的事業管理法』を翻訳・出版して、科学的管理法を日本に紹介し、現在の生産管理・経営管理の大きな影響を与えた。現在の日本能率協会、トヨタのカンバン方式などは、星野が日本にもたらした理論が基になっている[1]。

国字改良運動の識者として活動

事務効率化を進める観点から、日常生活の読み書きにカタカナを使用する「カナモジカイ」の活動に山下芳太郎や伊藤忠兵衛(2代目)らの企業家と積極的に携わり、文部省の国語審議委員会の評議員も務め、国字改良運動の重要な識者として活躍した[1]。

大阪ロータリークラブの設立

1922年(大正11年)に、大阪ロータリークラブを設立し、初代会長に就任。亡くなるまで、大阪財界の社会奉仕活動の中心人物として「ロータリアン」としての活動に尽力した[1]。

主な著作

  • 『学理的事業管理法』F・W・テイラー著/星野行則訳,崇文館書店,1913年

脚注

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