昭顕世子
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1623年、仁祖反正で父仁祖が王になると、1625年(仁祖2年)王世子に冊封された。1637年、丙子の乱が朝鮮の降伏により終結すると、約定に従い人質として瀋陽に赴くこととなる。その後は李朝側の窓口としてイングルダイやドルゴン等との折衝をこなすとともに、清内部の情報を本国に送るなどして本国の危機を回避すべく力を尽くした。
その後、鄭命寿から強要され、明人や買い戻した朝鮮人捕虜を使役しての清国内での経済活動を開始するが、1643年にこのことが朝鮮国内に発覚すると、仁祖との関係が急速に悪化。1645年に人質を解かれて帰国するも2ヶ月後に急死した。
清国内での経済活動や西洋の学問を取り入れようとしたことなどを憎んだ仁祖等による毒殺とも言われる。
仁祖実録にある昭顕世子の病状は毒殺のそれであり、通常なら嫡流を重視し昭顕世子の子が世子となる筈だが、弟の鳳林大君(後の孝宗)が世子に指名されていること、後に昭顕世子の廃嫡を主張していた金自點の告発により、妻の姜氏が仁祖を呪ったとして死を賜っていること、それに伴い、昭顕世子の子が全て済州島に流されていること等が毒殺説の根拠となっている。
世子東還未幾, 得疾數日而薨, 擧體盡黑, 七竅皆出鮮血, 以玄幎覆其半面, 傍人不能辨, 其色有類中毒之人, 而外人莫有知者, 上亦不之知也。
— 仁祖 46卷, 23年 6月 27日[要ページ番号]