景山粛
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家族
景山(蔭山)家
- (鳥取県境港市中野町)
- 中野村(現在の境港市中野町)には景山姓が多い。同族は近在に多くある。景山氏は尼子氏の遺臣・景山道観の末裔と伝えられる。郷土資料によると、もと“蔭山”を11代の義春から“景山”と改めた。初代木島立碩(景山義春)は長三郎の子として生まれ、京の木島氏(このしまし)に医を学んだ。木島を称するのは師の顧命によるものであり、子がなかったので甥の粛を養子にした。粛は文化年間に京の服部大方に学び、帰郷して文政の頃より医家のかたわら私塾を開いて子弟に教えた。粛の私塾に学んだ人たちの中から幕末・明治維新に多くの志士が輩出した。粛の子龍造は、江戸の梁川星巌に学び、京の三条実万に仕え、のち鳥取藩の学館教授となった。景山塾出身の志士たちとともに、激動の維新史に大きな足跡を残した。龍造の長男道遠は、明治5年(1872年)境郷校開設の時、初代校長を務め、明治8年(1875年)皇漢学所の教授となり、明治10年(1877年)京都府師範学校に転じ、明治12年(1879年)に帰郷した。
人物像
家富み徳また高し
粛は中野村の自宅で開業し診療を行っているが、景山家は相当の地所を持つ裕福な家であった。その治療に関しては薬価報酬は強要せず、患家のなすがままにまかせたといわれる。また平素医療と教授の忙しい毎日であったが、乞われれば夜半でも往復して書を講ずるなど、業務も塾の教育も熱心かつ勤勉であった。[1]
史料
参考文献
- 『境港市史 上巻』昭和61年、418-432頁
- 『境港市史 下巻』昭和61年、165-169頁