景浦直孝
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愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる[1][2] 。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業[1][3][4]。湯殿高等小学校訓導を経て[1][3]、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり[1][3]、1926年(大正15年)の退職[5]、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる[6][7][1]。
1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される[8]。(委員長は愛媛県立松山商業学校(現松山商業高校)校長陶山斌二郎、他委員は同校教諭羽田又永)『愛媛県誌稿』は1917年(大正6年)に出版される。景浦は、『愛媛県誌稿』の執筆にあたり地域史料調査の必要性から、熱心に郷土史料の古記録・古文書を蒐集していた西園寺源透と知り合い交流するようになる[8]。1914年(大正3年)5月に西園寺源透、曽我部一郎とともに伊予史談会を設立する[9][10][3][11][1]。
1924年(大正13年)、景浦自身の研究成果に加えて、西園寺源透・曽我部一郎・菅菊太郎・長山源雄ら伊予史談会仲間の研究成果・史説を援用して、初の系統的な伊予の通史である『伊予史精義』を出版した[12][13][14]。
1953年(昭和28年)3月19日に愛媛県教育文化賞、1955年(昭和30年)1月には愛媛新聞賞を受賞[1]。
1960年(昭和35年)1月4日、松山市から、名誉市民の称号を授与され[15][注釈 1]、翌1961年(昭和36年)には、関用紙店印刷所50周年記念出版として、人物篇・考証篇・史論篇33論考を収録した『伊予史論考』を上梓刊行した[16]。