暁民会
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概要
前史
ロシア革命や米騒動によって社会変革への期待が高まり、労働運動も盛んになる中で、1918年頃から多くの大学で社会科学や思想の啓蒙を目的とした学生組織が結成される[3]。黎明会や新人会の結成に刺激を受けつつ、1919年2月に早稲田大学においても、和田巌・高津正道らを中心として民人同盟会が創立される[1][4]。しかし、大山郁夫を担ぐ高津を中心とする派閥と、北沢新次郎を担ぐ和田を中心とする派閥で対立が生じる[1][4]。和田らは民人同盟会を脱退して新たに建設者同盟を結成する。一方で、高津らは学外での「暁民会」の結成へ向かう[1]。
成立
1920年5月[注釈 1]、高津正道・中名生幸力・本多季麿ら7、8人が高津の自宅に集まり、社会主義・無政府主義の研究・宣伝を目的として暁民会を結成する[2]。同年8月、高津が暁民会を代表して日本社会主義同盟準備会の発起人となる[5]。同年11月、高津・中名生・本多の3人は早稲田大学を放校処分となる[1]。
1921年1月、高津はアナ・ボル合作の雑誌『労働運動』(第2次)の創刊に参加する[5]。そこで高津は、大杉栄とともに同誌の中心となっていたアメリカ帰りの近藤栄蔵に接近する[6]。同年4月、近藤・高津・堺利彦・山川均・荒畑寒村らが会合を持って、日本共産党暫定執行委員会を設立するとともに、近藤を上海のコミンテルン極東局に派遣することを決定する[7][8]。
暁民共産党事件
1921年4月、上海に渡航した近藤栄蔵はコミンテルンから運動資金その他として6500円を受領するも、帰途下関での遊興中に検挙されて所持金の出所を探知される[9][10]。近藤は上海から持ち帰った運動資金の使途を堺利彦と山川均に相談するが、使い道は近藤に一任される[11]。そこで近藤は暁民会の高津正道らに運動資金を提供することとする。
同年8月20日[注釈 2]、高津・近藤・高瀬清・仲宗根源和らが集まり、規約や運動方針、人事を決定したとされる[2][注釈 3]。ただし、これをもって「暁民共産党」を結成したとする見方については、高津らは否定的な見解を示している[12]。
同年秋、高津らは小型の宣伝ポスター(伝単)を全国の主要都市に貼って回る。同年11月に東京地方で行われた陸軍特別大演習に際しては、「共産党本部」の署名で「上官に叛け!」などと記したビラを上京中の軍人の宿所に頒布する[13]。また、暁民会は重田要一を上海に派遣して、コミンテルン極東局にその活動を報告した[12]。
しかし、同年12月2日までに高津や近藤を含む関係者約40名が検挙される(暁民共産党事件あるいは軍隊赤化事件)。1922年4月25日および6月3日、東京地裁は近藤・高津・高瀬・仲宗根ら8名に、治安警察法の秘密結社・加入罪で禁錮8か月の判決を下す[14]。この事件によって暁民会としての活動は潰えたが、近藤・高津・高瀬ら中心メンバーは同年7月の日本共産党(第一次共産党)の創立に参加する[15]。