曹廷隠
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魏州典謁虞候となった。天祐12年(915年)、後梁の魏博節度使の賀徳倫が晋王李存勗に降り、李存勗が魏州に入ると、廷隠は魏州馬歩軍都虞候に抜擢された[1]。天成2年(927年)、斉州防禦使に任じられた[2]。その紀律は厳粛で整っており、清潔なことで知られた。ときに孔目吏の范弼は性格が頑固でであり、廷隠を侮蔑していた。范弼は軍の食糧倉庫を監督しており、食糧を売りさばいて財産を得ていた。また官塩を私物化していた。廷隠はこれを取り調べて、范弼の悪事を上奏した。范弼の家人が宰相に訴えて、廷隠は御史台に弾劾された。天成3年(928年)、范弼は処刑されたが、廷隠の奏上も事実ではないとされて、廷隠は永州に流された[1]。7月19日、自殺を命じられた[3]。当時の人はこれを冤罪とみなした[1]。