最上義雅 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代中期生誕 明暦2年(1656年)死没 元禄12年1月9日(1699年2月8日)別名 右京[1]、刑部[1](通称) 凡例最上義雅時代 江戸時代中期生誕 明暦2年(1656年)死没 元禄12年1月9日(1699年2月8日)別名 右京[1]、刑部[1](通称)戒名 宗忠[1]墓所 滋賀県東近江市尻無町の妙応寺幕府 江戸幕府氏族 最上氏父母 父:最上義智、母:松平和泉守の養女[1]兄弟 孫三郎、義雅、義賢、松平康起室、小野則正室[1]妻 正室:諏訪忠晴の養女[1](大炊御門経孝の娘)継室:植村忠朝の娘[1]子 八十郎、女子[1]養子:義如テンプレートを表示 最上 義雅(もがみ よしまさ)は、江戸時代中期の旗本。最上氏の第15代当主。最上義智の子で、交代寄合(近江国大森陣屋5000石)としては2代目当主。 明暦2年(1656年)[注釈 1]、最上義智の次男[1]として生まれる。兄の孫三郎は早世しており[1]、寛文7年(1667年)9月5日、12歳のときに継嗣として将軍徳川家綱に御目見している[1]。 元禄10年(1697年)3月9日に父が没し[1]、7月11日に遺跡を継承した[1]。 元禄12年(1699年)1月9日、近江国大森陣屋(現在の滋賀県東近江市大森町)で没[1]、44歳[1]。大森村の隣村尻無村(現在の東近江市尻無町)にある菩提寺[2]の妙応寺に葬られた[1]。 末期養子として、永井直増の次男(最上義如)を迎えた[1]。 系譜 母は『寛政重修諸家譜』に義智の正室である「松平和泉守の養女」と記載されている[1]。法名を渓台院殿といい、三条西実条の長女で、松平和泉守乗寿の養女になった人物である[3](最上義智#系譜参照)。 『寛政重修諸家譜』によれば、実子として1男1女が挙げられているが、男子(八十郎)は早世し、女子は事績の記載がない[1]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 没年・享年からの逆算[1]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 『寛政重修諸家譜』巻第八十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.447。 ↑ “尻無町の妙応寺で入佛式法要”. 滋賀報知新聞. (2011年8月2日). http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0008149 2021年11月29日閲覧。 ↑ 小野末三. “山形藩主・最上源五郎義俊の生涯【八 義俊の最期、そして家族たち】”. 最上義光歴史館. 2021年11月28日閲覧。 表話編歴最上氏第15代当主(1697年 - 1699年) 兼頼 - 直家 - 満直 - 満家 - (頼宗) - 義春 - 義秋 - 満氏 - 義淳 - 義定 - 義守 - 義光 - 家親 - 義俊 - 義智 - 義雅 - 義如 - 義章 - 義隆 - 義郷 - 郷倍 - 義溥 - 義実 - 義昶 - 義偆 - 義連 - 義和 - 彰義 - 義雄 - 公義 - 義治 - この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles