望月光蔵
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父・常忠は幕臣で代官手代。徳川家斉の治世にあって町人と共に祭礼で騒ぐ奔放な人物だったが、天保の改革により取締りが厳しくなると処罰を受け、家督を光蔵に譲った [1]。
光蔵は代官手代として勤務を始め、酒・煙草・囲碁・将棋を避け、職務に精励した。余暇は剣道に没頭し、神道無念流の斎藤弥九郎が主宰する練兵館に通って代稽古を務めるほどの腕前であった。小太刀や手裏剣にも秀で、門弟の中でも有力な剣客として知られた [1]。 練兵館は試衛館とも交流があり、竹刀剣術に不慣れな試衛館が道場破りを受けた際には、光蔵ら練兵館勢が助太刀に行ったという伝承もある。
やがて神奈川奉行所の定役元締に抜擢され、八十俵三人扶持の旗本に列した。奉行所では検地・隠田摘発を担当し、現代の税務署・軽犯罪取締り・簡易裁判を兼ねた職務にあたった。
慶応4年(1868年)4月、望月は会津藩の再興に協力すべく同志3名とともに水戸・棚倉を経て若松城下へ入った[2]。 同年4月29日、宇都宮城の戦いで負傷した土方歳三が七日町清水屋に宿泊しており、望月はここで面会している。『夢乃うわ言』によれば、土方が「汝等、吾に与(くみ)せよ」と協力を求めたが、望月は「余、その傲慢、人をかろんずるをにくむ」と応じ、文官である自らの立場を理由に協力を断った。これに怒った土方が枕を投げつけ、「多言わが病褥を犯す、聞くを要せず、去れ」と言い放ったという[2]。
その後望月は三斗小屋方面の守備に就いたが、戦闘で同志と離散。雲井龍雄と行動を共にし、永倉新八・芳賀宜道・近藤芳助らと合流して米沢藩に援軍を求めた。しかし藩論はすでに降伏に決しており、計画は実らなかった[2]。
明治維新後は、旧主徳川慶喜が謹慎を解かれると静岡に赴き、旧幕臣として復帰。のちに神奈川県次官参事・高木氏に招かれ神奈川県税務官に就任した。地券課長に昇進するも、農民出身の官僚との対立や、親交のあった高木氏・県令大江卓の転任などにより辞職。続いて熊谷県大属、官八等を経て高崎支庁局長に任ぜられたが、これも辞職している[2]。
晩年は麻布広尾町に屋敷を構え、麻布市役所書記として勤務。約5年後に退職し、「いざさらば 天に昇りてまた生きん」と墓碑に刻んで没した。享年70 [2]。 墓所は東京都港区南青山青山霊園 [2]。