宝亀7年(776年)一族の秦箕造らと共に秦忌寸から朝原忌寸に改姓する。
桓武朝初頭の天応元年(781年)外従五位下に叙せられ、天応2年(782年)大外記に任ぜられる。同年8月に治部卿・壱志濃王や左中弁・紀古佐美らと共に陰陽を理解する者を率いて、光仁天皇陵を改葬するために大和国へ赴き山陵地の選定を行っている[2]。
のち、大学助・越後介の兼務を経て、延暦4年(785年)内位の従五位下・東宮学士に叙任され、皇太子・安殿親王の学士となる。まもなく文章博士を、さらに延暦6年(787年)には大学頭も兼ねている。