大和源氏の源頼親流で、父は朝日新三郎。
元は武田氏の先方衆であった下条氏の家臣であったが、下条氏の没落にともなって離れて、
天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に家康、秀忠に拝謁して家臣となり、豊臣政権下での関東移封により、武蔵国児玉郡(現・埼玉県)内に500石を賜った。
慶長4年(1599年)、代官頭大久保長安の意を受け、信濃国伊那郡内の社寺に一斉に安堵の朱印状を発給した。伊那郡には受永から朱印状を受け取った寺院が28ヶ寺ある。
関ヶ原の戦いが終わると、伊那郡に戻ってきている。
慶長6年(1601年)検地奉行・榑木奉行となり、伊那郡代官となり1万石余を預かり、和合・帯川・日吉などを支配した。
家康は江戸城、駿府城の普請用材確保のため、信州伊那谷に蔵入地を設定し、長安により地方支配と材木宰領を委任されたため、本年貢を榑木で上納する榑木成り村を創成した。
慶長8年(1603年)7月28日に55歳で没すると、子の十三郎が榑木奉行を嗣ぐと思われたが、江戸幕府に大番として仕えることになり、榑木奉行は千村良重に引き継がれた。
法名は「安済」。嫡男の近次は大坂の陣に参戦し、旗本として、子孫は明治の版籍奉還まで続いた。
また武田氏の陪臣時代、足軽の古田右衛門に朝日姓を与え朝日善右衛門と名乗らせ、『鸚鵡籠中記』の作者朝日重章はその子孫にあたる。