伊那郡
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歴史
- 郡衙の位置は飯田市座光寺(恒川遺跡群)と推定されている。
- 和名類聚抄に見える郷名は伴野、小村、麻続、福智、輔衆と記述されている一方、中世以降、伊那郡に所属したと比定される佐補、美和、弖良は諏訪郡に記載されている。また諏訪大明神絵詞には「信州に至り給し時、伊那郡と諏訪郡の堺に大田切と云所にて」との記述があり、また『修補諏訪氏系図』には「近代迄伊那郡に於ける北部にして諏訪郡に接続せる村里を外の諏訪郡と呼称せしことあり」と記述されていることから、古代においては大田切川以北は諏訪郡に含まれていたことが推察される[1]。
- 764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂の乱が起こると、伊那郡の大領(郡司の長)金刺八麻呂が孝謙上皇方に立って活躍した。
- 768年(神護景雲2年)、続日本紀の記述に全国から善行のあった9人が朝廷から褒美を得たとあり、その内4人までが信濃の国からである。1人が他田部舎人千代売と言う名の未亡人で節婦が理由とされる伊那郡の人である。
太田切川以北
太田切川は、古くはその流路が信濃国の諏訪郡と伊那郡との境であったとされる。
また『諏訪大明神絵詞』には「信州に至り給し時、伊那郡と諏訪郡の堺に大田切と云所にて」との記述があり、また『修補諏訪氏系図』には「近代迄伊那郡に於ける北部にして諏訪郡に接続せる村里を外の諏訪郡と呼称せしことあり」と記述されていることから、古代においては大田切川以北は諏訪郡に含まれていたことが推察される。
現在も駒ヶ根市と宮田村との境界線になっているが、中央自動車道の橋から上流の新太田切発電所までの間、距離12キロメートルの区間が境界未確定である。
民俗習慣や方言も太田切川を境にして異なっているが、これは急流さから両岸を結ぶ架け橋が近代まで実現せず、川をまたいでのつながりがほとんどなかったからである。
根羽村と月瀬村
- 古代・中世の根羽村・月瀬村両村は三河国に属していた。
- 鎌倉時代 - 加茂郡 (三河国)名倉郷に属し、鎌倉御家人の荘官足助氏の支配下に入ったと伝えられている。
- 南北朝時代 - 加茂郡足助荘に属したとされている。
- 元亀2年(1571年)4月 - 武田信玄の西上作戦の一環として足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり、三河国から信濃国伊那郡に編入となった。
式内社
→「信濃国の式内社一覧」も参照
| 神名帳 | 比定社 | 集成 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 社名 | 読み | 格 | 付記 | 社名 | 所在地 | 備考 | |
| 伊那郡 | |||||||
| 凡例を表示 | |||||||
伊那郡に見える「領」
江戸時代以前の伊那郡は在地の中小領主に分割支配されていた。以下は太閤検地時点における伊那郡総検地に見える近世初期の領である(『信州伊奈青表紙之縄帳』)。
- 上伊那領 - 12村
- 箕輪領 - 26村
- 高遠領 - 49村
- 赤須領 - 1村
- 上穂領 - 1村
- 飯島領 - 3村
- 片桐領 - 6村
- 大草領 - 5村
- 大島領 - 5村
- 市田領 - 11村
- 知久領 - 14村
- 坂西領 - 2村
- 飯田領 - 2村
- 松尾領 - 22村
- 南山領 - 29村
- 遠山領 - 6村
- 下条領 - 60村
近代以降の沿革
- 所属町村の変遷は上伊那郡#郡発足までの沿革、下伊那郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。下記のほか寺社領、寺社除地[2]が存在。国名のあるものは飛地領。(3町301村)
- 慶応2年6月19日(1866年7月30日) - 白河藩が棚倉藩に転封。
- 慶応4年
- 明治元年
- 明治2年
- このころ旗本領および幕府領の一部(松本藩預地)が伊那県の管轄となる。
- 9月 - 幕府領(千村氏預地・知久氏預地)が伊那県の管轄となる。
- 明治3年12月23日(1871年2月12日) - 高須藩が廃藩。領地は名古屋藩の管轄となる。
- 明治4年
- 1879年1月4日 - 郡区町村編制法の長野県での施行により、伊那郡のうち、伊那村ほか2町26村の区域に上伊那郡が、飯田町ほか1町31村の区域に下伊那郡がそれぞれ行政区画として発足。同日伊那郡消滅。
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 20 長野県、角川書店、1990年7月1日。ISBN 4040012003。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 『長野県史 通史編 第4巻 近世1』
