はじめ織田信長に仕え、のちに秀吉の部将として各地を転戦した。天正初年頃の宗易と羽柴秀吉の連署状があり、その宛所として「木下助兵衛尉御宿所」と記される。この書簡は秀吉と利休の花押が並び立つ珍しい例とされる。文中では利休が助兵衛尉の茶器の見識を高く評価しており、「さりとは、御目利きとくに存候」と賞していることから、特に井戸茶碗や茶釜に対する高い鑑識眼をもっていたとされる。
天正9年(1581年)の鳥取城の戦いでは、秀吉軍の右翼・大平に羽柴秀長を置き、平地部には荒木兵太夫や木下助兵衛らが配置された。この時期には既に一軍を率いる将として重きをなしていた。
本能寺の変後に宮部継潤の但馬豊岡城の城主を継承した。『太閤記』および『柴田退治記』には「木崎城主木下助兵衛尉」の名が見え、賤ヶ岳の戦い(1583年)において秀吉方として奮戦したとされる 。
さらに『太閤記』および『谷森文書』などでは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死したとも伝わるが、詳細は不明である。