木村五郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
東京府東京市神田区で、洋服商を営む鈴木家に生まれたが、建具職人の木村家の養子となる[2]。1915年に徒弟学校を卒業し山本端雲に師事、さらに石井鶴三の指導を受けた[1]。
1919年、石井の推薦を得て、日本美術院研究会員となり、1920年には「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選した[1]。日本美術院での活動と並行して、山本鼎が提唱した「農民美術運動」に賛同し、1925年に手工芸協会の結成に参加する一方[2]、日本美術院においては、1926年には院友、1927年9月に同人となった[1]。この間、1925年、市川房枝に彫刻のモデルとなることを依頼し、作品自体は完成しなかったものの、以降、市川と交流し、1929年から1934年まで、市川ら婦選獲得同盟の機関誌『婦選』に表紙デザインなどを無償で提供した[2]。
1927年以降は、日本農民美術研究所嘱託としてとして木彫の指導にあたるため[2][3]、京都府宇治町(後の宇治市)、長野県川路村(後の飯田市)、秋田県大湯町(後の鹿角市)など全国各地に赴いた[2]。特に、伊豆大島には1927年以降頻繁に訪れ、1929年には木彫講習会を開催して島民たちに「あんこ人形」作りの技法を伝え、また島民の姿を捉えた作品を制作した[2]。木村が島民の姿を描いたスケッチが、絵葉書として発売されたこともあった[2]。木村は、木彫の技法についての著書の中で、原型を用いて同様の木彫を複数製作する方法について詳述した[4]。
没後には遺作展が開催され、日本美術院から『木村五郎作品集』が刊行されたが、その表題は石井が揮毫し、序文は喜多武四郎、後書きは平櫛田中により、年表の作成は宮本重良が手がけた[2]。