木村勝教は、江戸幕府の勘定方官僚として台頭し、嘉永年間より勘定組頭として幕府財政実務に従事した。嘉永5年(1852年)3月22日、勘定組頭格に任ぜられ、翌嘉永6年(1853年)4月12日には勘定組頭となり、永々御目見以上の待遇を受けた。
安政6年(1859年)2月2日、小普請に転じて一時御役御免差控となるが、文久2年(1862年)6月28日には長崎奉行支配吟味役として復帰し、同年閏8月8日には再び勘定組頭に任ぜられた。文久2年11月20日には勘定所留役を兼ね、同年12月16日には布衣を許された。
文久3年(1863年)7月25日には勘定組頭兼代官となり、同年10月11日勘定吟味役に転じる。さらに同年11月7日、将軍上洛に際して上洛御供を命じられ、幕政中枢の一員として京都政局にも関与した。同年12月29日には勘定奉行並に昇進し、道中奉行を兼ねた。
文久4年(1864年)2月3日、甲斐守に叙任され諸大夫に列した。しかし、攘夷戦争と列強の圧力が重なり京都政局が緊迫する中、元治元年(1864年)6月3日、政事総裁職の松平直克(大和守)によって攘夷に消極的と弾劾され、板倉勝静・酒井忠清らとともに出仕停止を求められた。同年7月13日、木村は寄合に転じて事実上の失脚となった。
その後、慶応元年(1865年)閏5月25日、関東郡代並に任ぜられ、岩鼻陣屋に在陣した。同年12月1日には正式に関東郡代となり、武蔵・上野両国を管轄した。慶応2年(1866年)には、武州世直し一揆が秩父郡名栗村を発端として拡大した際、上州への波及を防ぐため、岩鼻陣屋在陣の木村は猟師鉄砲隊の出動を命じ、利根川・神流川を防衛線とする治安維持策を講じた。
慶応3年(1867年)1月26日、再び勘定奉行並に任ぜられ、同年12月27日には勘定奉行に昇進した。慶応4年(1868年)2月22日までその職にあったことが確認されている。