木村定三
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青年期
1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた[1][2]。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった[1][2]。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた[3]。
1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した[1][2]。1932年(昭和7年)3月には第八高等学校を卒業し、同年4月には東京帝国大学法学部に入学した[1][2]。高等学校時の成績は優秀で、文科甲類に所属した同窓生71人中2番目であった[1]。1935年(昭和10年)には高等文官試験行政科に合格し、1936年(昭和9年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した[2]。
実業家として

大学卒業後には官僚などになることなく、帰郷して家業に従事した[2]。なお、1930年(昭和5年)には長兄の木村定一が死去している[3]。卒業前年の1935年(昭和10年)4月には父の定治郎が死去し、次兄の木村定二が木村家の家督を継いだ[2]。なお、与謝蕪村『富嶽列松図』は父の遺品である[4]。
次兄の定二は1907年(明治40年)に生まれ、定三同様に第八高等学校や東京帝国大学法学部を卒業し、名古屋起毛合名会社代表を務めた人物である[2][5]。父の定治郎は書画や骨董を趣味とし、次兄の定二も謡曲・和歌・俳句・書画・骨董を趣味としていた[5]。
1966年(昭和41年)には名古屋市に新納屋橋ビルを建て、大名古屋建物株式会社の社長に就任した[4][6]。
熊谷守一との出会い
1938年(昭和13年)12月、丸善名古屋支店で「新毛筆画展覧会」が開催された際、木村は初めて熊谷守一と出会った[2][7]。この展覧会で熊谷芸術に魅せられた木村は、「蒲公英に蝦蟆」「蝦蟆に蟻」「富士山に蕃南瓜」の3点を購入した[2]。これが木村定三コレクションの始まりである[8]。この時木村は25歳、熊谷は58歳だったが、「絵が面白いから百枚までは買ってやる」と豪語したという[2]。
この出会いから熊谷守一との39年に渡る交流が始まり[7]、1977年(昭和52年)に熊谷が死去するまで、木村は熊谷にとって最大の支援者だった[2]。毎年のように、木村は名古屋に熊谷を招いて展覧会を開催し、また熊谷の作品を購入した[2]。1969年(昭和44年)には日本経済新聞社から『熊谷守一作品撰集』を上梓している。
美術品収集家として

抑、美術品は生活の必需品ではないから、そのものから精神的感銘を受けないならば、いかに安価なものでも、それを買うことは贅沢である。しかし精神的感銘を受けるならば、いかに高価なものでも贅沢ではない。何となれば、精神的感銘を受けると言うことは、人格完成の為の必須要件であるからだ。 — 木村定三[9]
人間の受ける精神的感銘の中で最高なるものは「厳粛感」と「法悦感」の二つである。両者は受ける感じが、全く異るけれども、その間優劣がない。 — 木村定三[9]
熊谷守一を皮切りに、池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、青木木米、富岡鉄斎、小川芋銭、岸田劉生、村上華岳、平福百穂らの作品を重点的に収集した[9]。精神的感銘を受ける作家・作品を嗜好しており、厳粛感や法悦感が重要であると考えている[9]。1958年(昭和33年)時点の存命作家で、厳粛感でいえばパブロ・ピカソ、法悦感でいえば熊谷守一が一番であるとし、物故作家では、厳粛感でいえば横綱が浦上玉堂で大関が与謝蕪村、法悦感でいえば横綱が小川芋銭で大関が池大雅としている[9]。
晩年、いずれも重要文化財の与謝蕪村『富嶽列松図』と浦上玉堂『山紅於染図』、近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に対して寄託・寄贈した[10]。2003年(平成15年)1月23日、肺炎のために名古屋市で死去した[10]。死去前から愛知県図書館では展覧会の準備が進められており、同年3月1日から3月30日には展覧会「時の贈りもの 収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」が開催された[10]。愛知県美術館には木村定三コレクション室が設置されている[10]。
死去5年後の2008年(平成20年)1月25日から3月23日、愛知県美術館で展覧会「木村定三コレクション名作展」が開催された。

