大永6年(1526年)、誕生。
天文20年(1551年)、26歳で鬼ヶ城の城主に命じられる。鬼ヶ城は島津忠親の領地飫肥城を目の前にした最前線の出城であり、島津豊州家との合戦では重要な拠点だったが、佐土原城、清武城といった内地の拠点とは日南海岸沿いの長細い経路によって大きく寸断された地勢にあるため、僅かな反撃を受けて危機に陥ることもあった。永禄11年(1569年)に飫肥城攻略が成就するまでの約20年間に渡って祐守は鬼ヶ城を守り抜き、伊東義祐は自らの手記でその忠節を称えている。
島津忠親が去った後、飫肥には義祐の次男・祐兵が入り、祐守は飫肥城松尾丸に移って祐兵の家老を務めた。
元亀3年(1572年)、伊東氏は木崎原の戦いを契機に一時衰退する。天正5年(1577年)、伊東義祐・祐兵親子は御供の家臣を連れて日向国から豊後国に一時的に退去。この際、祐守は落ち延びて櫛間の道場へ潜伏する。3年後、密告者の情報で島津氏に捕えられ、弟の八郎左衛門と共に自害してしまう。