木阪義胤

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木阪 義胤(きさか よしたね、1904年明治37年)1月1日[1] - 1944年昭和19年)11月8日[1][2])は、日本の海軍軍人。

広島県出身で、海兵51期恩賜(4位)および海大33期。

軍歴

軍令部部員・大本営海軍参謀を経て、1938年より米国駐在。1939年9月25日より、在米国大使館附武官補佐官として活動した後、軍務局員(2課)兼調査課員。1944年11月8日に戦死し、海軍少将に特進した[1][2]

  • 1923年7月14日: 海軍少尉候補生
  • 1924年12月1日: 海軍少尉
  • 1926年12月1日: 海軍中尉
  • 1928年12月10日: 海軍大尉・敷波砲術長
  • 1934年11月15日: 海軍少佐・榛名副砲長
  • 1939年11月15日: 海軍中佐・駐米武官補佐官
  • 1944年5月1日: 海軍大佐・第八艦隊首席参謀
  • 1944年11月8日: 海軍少将

五・一五事件

五・一五事件では、1933(昭和8)年7月24日、神奈川県横須賀市で行われた海軍側第1回公判[3](山本孝治検察官、高頼治法務官、高須四郎判士長)において、海軍横須賀鎮守府軍法会議判士(軍事裁判における裁判官)として審理した[4]

セ号作戦

1943年、第八艦隊参謀として、コロンバンガラ島からの撤退作戦「セ号作戦」を立案。日本軍の戦略的撤退を成功させた。

家系・親族

脚注

参考文献

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