本宿宅命 From Wikipedia, the free encyclopedia 本宿 宅命(もとしゅく たくめい、嘉永5年9月18日(1852年)10月19日) - 明治25年(1892年)12月31日)は、明治時代の日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計総監。陸奥国盛岡藩出身。通称は恒太郎[1]。 陸奥盛岡藩士の家に生まれる。幼名は恒太郎。海軍省に出仕し、官房長を経て明治24年(1891年)には勝海舟の知遇を受け、その推挙によって樺山資紀のもとに海軍省第三局長に就任した [2]。最終的に海軍主計総監となり、第1回帝国議会では政府委員として軍艦建造費予算案の説明を担当。これにより巡洋艦「吉野」などの建造が実現した[3]。 明治25年(1892年)12月31日、41歳で死去。 一族 妹のキヨは田中館愛橘と結婚し、翌年に美稲子を産んだ [4]。 弟に本宿享がいる。享は菊池啓作の二男で、本宿家に養子に入った。従兄には法学博士で中央大学創立に関与した菊池武夫がいる。本宿享は少年期に経済的困窮や父の死に直面し、兄・宅命を頼って上京したが、当時宅命は西南戦争に従軍中であったため、同郷の奈良真志(のち海軍主計少将)の家に身を寄せた。その後、周囲の支援により攻玉塾に学んでいる。 また、本宿家の親族である道又金吾(盛岡市本宿家出身)は、文学者石川啄木と交流を持ったことで知られる。 評価 本宿宅命は「苦学力行」の人物と評され、藩閥の外からの出身でありながら海軍大佐にまで昇進し、帝国議会で活躍した将来有望な人材と見なされていた。しかし41歳で早逝したため、その前途は絶たれることとなった。 脚注 ↑ “本宿宅命とは”. コトバンク. 2025年10月4日閲覧。 ↑ 岩手日報社 1956, p. 296. ↑ “本宿宅命とは”. コトバンク. 2025年10月4日閲覧。 ↑ 日本ローマ字教育協議会 1952, p. 7. 参考文献 『自由の征矢 岩手民党夜話』(岩手日報社、1956年、296p) 『ことばの教育 ローマ字教育誌』(日本ローマ字教育協議会、1952年、7p) Related Articles~TimelinesTop QsFact Checks