朱友寧
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経歴
幼い頃より『詩経』や『礼記』を習い、兵法を好んだ。朱全忠が汴州に駐屯すると、友寧は軍職を歴任した。朱全忠に従って、蔡州の秦宗権を捕らえた。秦宗権を檻に入れて長安に送った功績により検校右散騎常侍を加えられ、右監門衛将軍を代行した。軍功を続けて立てて、検校司空を加えられ、龔州・柳州の刺史を兼ねた。朱全忠が鳳翔府に軍を駐屯させると、友寧は先に汴州に帰って守った[1]。
青州の王師範が乱を起こすと、朱全忠軍の主力は関中にいたため、関東の諸州は王師範や楊行密と結ぶものが相次いだ。留守をつとめていた友寧が兵1万あまりを率いて東征に出撃した。王師範がその弟を派遣して斉州を包囲していたが、友寧は兵を率いてこれを救援し、青州兵を破った。天復3年(903年)、昭宗が長安に帰ると、友寧は嶺南西道節度使に任じられ、特進・検校司徒を加えられ、號迎鑾毅勇功臣の号を賜った。友寧は兗州の南で青州兵を破った。諸軍を監督して営丘に迫り、博昌県を攻めたが、苦戦した。博昌県をようやく落とすと、虐殺をおこなった。6月、友寧は石楼で青州と淮南の連合軍と戦い、王茂章の軍に敗れて落馬し、殺害された。その首級は楊行密のもとに送られた[2][3][4]。後梁の開平2年(908年)、安王の封号を贈られた[5]。