杉本行雄
日本の実業家
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来歴・人物
杉本恒蔵・はるの四男として、静岡県田方郡伊豆町に生まれる[4]。3歳で父親と死別。行商の母親に育てられ[5]、尋常小学校を卒業後、一時期、サハリン・泊居の太栄炭山で働き[6]、1929年に郷古潔ついで渋沢栄一の書生となる。1935年中央大学法科を2年で中退した。
その後、栄一から家督継承した渋沢敬三(栄一の嫡孫)の秘書を経て、渋沢子爵執事を務める[4]。
敬三の命を受け、1946年に渋沢家の農場があった青森県三本木町(現:十和田市)に移住。製材業を始め[4]、1951年に十和田開発(後の古牧温泉渋沢公園)を起こす[4]。また同年には十和田観光電鉄取締役となり、1957年4月社長に就任するが、1969年、同社労働組合が私鉄総連加盟を巡って、約70日に及ぶストライキを打ち、収拾につかれた杉本は、十鉄株を国際興業を率いる小佐野賢治に譲渡し、社長を辞任した[7]。これに先立ち、1952年に 十和田商工会議所会頭に推される。
以後は、十和田観光開発古牧温泉渋沢公園社長として、十和田湖グランドホテル、十和田湖ターミナル、奥入瀬渓流観光グランドセンター、奥入瀬渓流グランドホテル・同温泉ホテル、焼山温泉グランドホテル・同青山荘南八甲田谷地温泉、三沢古牧温泉渋沢公園古牧グランドホテル等や、十和田科学博物館、小川原湖民俗博物館も創設し、「北のホテル王」の名をほしいままにしたが、暮らしぶりは質素で偉ぶることはなかった[5]。
2003年9月12日未明、JR三沢駅構内で事故死(自死とも)。89歳没。親交のあった作家の瀬戸内寂聴は告別式の弔事で「ただ一人相談できる方を失った」と嘆いた[5]。
なお、古牧温泉は経営拡大路線に乗じて、バブル期に金融機関から40億円借金して建設した「奥入瀬渓流第二ホテル」が、投資に見合った利益が上がらず、2003年に杉本が死亡したことも重なり、長引く景気低迷に勝てず、2004年11月、民事再生法の適用を申請。経営破綻した。負債総額は古牧温泉渋沢公園が130億円、子会社の十和田観光開発が90億円[8]。また杉本は、大蔵省から払い下げを受け、東京三田の旧渋沢邸(旧渋沢家住宅)の内閣六省共用会議所を、1991年に古牧温泉渋沢公園内に移築したが[9]、経営破綻後、清水建設が買い取ることになり、東京潮見の新たな研究開発拠点内に移築され、2025年に一般公開を予定する[10]。
家族
関連書籍
- 笹本一夫、小笠原カオル『挑戦 55歳からの出発・杉本行雄物語』実業之日本社、1994年11月。ISBN 978-4408190495。