2代目杉浦銀蔵、幼名仙吉は、弘化4年(1847年)に三河国幡豆郡西尾順海町(現・西尾市順海町)に生まれた[3]。11歳のとき地元西尾の古着商「河内屋」で働き始める[3]。21歳のとき、岡崎籠田町で呉服商「沢津屋(澤津屋)」を営む杉浦家に養子として迎えられ、1871年(明治4年)に養父銀蔵の死去に伴いその名を襲名、2代目杉浦銀蔵となった[3]。明治時代になり、周囲で洋反物を扱う店がないことに着目した銀蔵は、まず毛繻子の販売を始める[4]。さらにラシャ地の上着が流行すると自らその裁断法を研究し、販売を始めた[4]。妻に仕立てを任せたが、各地から注文が相次いだため旧藩士の手を借りて注文に応えたという[4]。
やがて家業以外にも乗り出し、1884年(明治17年)に桑園事業を始めた[3]。岡崎地方に養蚕業を定着させようと1町余りの土地を開き着手したものである[2]。翌1885年(明治18年)には織機50台を購入し2つの織布工場の操業を始め[4]、1886年(明治19年)には洋風瓦の製造も始めた[3]。東海道本線の建設にあたっては市街地に近い明大寺町への岡崎駅設置を求める陳情活動に奔走する[4]。政界では1889年(明治22年)、岡崎町議会の設置に伴い町会議員に当選した[5]。
岩津発電所(2005年撮影)。建屋は建設当初からのものではない。
1895年(明治28年)、同じ籠田町で「丸藤旅館」を営む旧知の田中功平から、当時日本ではほとんど普及していなかった水力発電事業について話を持ち掛けられた[3]。醸造業「伊勢屋」を営む近藤重三郎を加えた3人で電灯事業に取り組むこととなり、豊橋の豊橋電灯に参画していた技師大岡正を招いて翌1896年(明治29年)に岡崎電灯合資会社を立ち上げた[3]。資本金は3万円であったが、水力発電に理解のない時代のことであり融資に応ずる者がおらず、杉浦・田中・近藤の3人は家財や土地を売却して資金を集めた[6]。1897年(明治30年)、矢作川水系の郡界川に出力50キロワットの岩津発電所が完成[3]。同年7月8日、県内3番目、中部地方でも8番目の電気事業者として岡崎電灯は開業をみた[3]。
こうして開業した岡崎電灯であったが、間もなく資金不足に陥った[3]。資金が尽きたことから創業者3名のうち近藤と田中は1898年(明治31年)7月より6年半経営を杉浦に委任として退いてしまう[2]。単独で経営を引き受けた杉浦は、旧知の手島鍬司を介して八丁味噌醸造元(カクキュー)の第16代早川休右衛門に支援を依頼する[3]。当時杉浦らは未知の事業を手掛けるとして周囲から敬遠されていたが、早川は支援を引き受けた[3]。早川の後援により岡崎電灯の事業を軌道に乗せることができたものの[3]、事業拡大の途上にあった1899年(明治32年)10月2日、杉浦は急死した[2]。52歳没。