杉野孫七
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日露戦争まで
1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。
日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。1899年には戦艦「朝日」回航委員付としてイギリスに向かい、帰国後に一等兵曹へ昇進する。1903年6月からは「朝日」乗組員となり、時の水雷長海軍少佐・広瀬武夫と意気投合、日夜寝食を共にした。
旅順港閉塞作戦

1904年の日露戦争では、第二回旅順口閉塞作戦で広瀬武夫の率いる閉塞船・福井丸指揮官附となった。同年3月27日、福井丸が旅順港口に接近し、まさに投錨自爆しようとすると同時に敵の水雷が命中し、船底が裂けて浸水した。広瀬は直ちに乗組員を端艇に移して点呼による人員確認をしたが、爆薬点火のために船艙へ降りた杉野の姿が無かった。「杉野! おらんか!? 返事しろ!」という広瀬の呼びかけにも答えはなく(唱歌「広瀬中佐」の中でも歌われている)、三度にわたる船内捜索でも見つからなかった。
広瀬は、端艇に移ろうとするときに、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。戦後、広瀬は中佐へ、杉野は上等兵曹から兵曹長に特進し、功六級金鵄勲章ならびに勲六等単光旭日章が追贈された。
その死は広瀬と共に顕彰され、万世橋駅前に広瀬と共に銅像が建てられたが、戦後の1947年(昭和22年)にGHQ民間情報教育局から「軍国的、超国家的イデオロギー像及び記念碑の廃棄」を指示する覚書が交付されたことにより、「国民の戦意高揚を強調し、敵愾心をそそる」と考えられて審査委員会で「戦犯銅像」に指定され、これを理由に広瀬像と共に撤去された[1][2]。他にも飛騨護国神社などに碑が建てられている他、文部省唱歌『廣瀬中佐』の題材ともなった。まだ、出生地である三重県鈴鹿市磯山駅近くにも碑が建てられている。