星山君李兆年の孫で、李仁復の弟。蔭官により典客寺丞に任じられた。恭愍王7年(1358年)、典法総郎から左副承宣に昇進。恭愍王8年(1359年)、紅巾軍が義州を攻略すると、恭愍王は李仁任を西京存撫使に任命し、紅巾軍の進攻に備えた。紅巾軍平定後、二等功臣に叙せられた。恭愍王11年(1362年)、諸将と共に開京を奪還し、一等功臣に叙せられた。恭愍王12年(1363年)、元朝が徳興君を高麗王に冊封しようとした際、恭愍王は李仁任を西北面都巡問使および平壌尹に任命し、軍糧の調達を担当させた。恭愍王14年(1365年)、恭愍王は李仁任を三司右使に任命し、後に都僉議賛成事に転任。「純誠同徳輔理功臣」の号を賜り、左侍中に昇進。恭愍王の意向に迎合し、王后の祭祀のための大規模な土木事業を推進したため、高麗の国力が衰退した。
恭愍王23年(1374年)、李仁任は一時免職されたが、まもなく門下侍中に復帰し、広平府院君に封じられた。同年、恭愍王が暗殺されると、李仁任は反対を押し切り、恭愍王の幼い子である王禑を高麗王に擁立し、朝政を独占する権力を得た。明朝の討伐を避けるため、親元政策を採用した。執政期間中、官職の売買や汚職、虚名を好み、小恩小恵で人を懐柔する行為が当時の人々から嘲笑された。高麗の国庫が空になる中、李仁任は田地や奴僕を各地に所有し、門下生や旧友が朝野に広がっていた。王禑12年(1386年)、侍中に昇進した。王禑13年(1387年)、引退。王禑14年(1388年)、京山府に流刑となり、親族や子弟も免職や流刑、あるいは極刑に処された。王昌元年(1388年)、左侍中の曹敏修が李仁任の召還を求めたが、既に流刑地で病死していた。民衆は彼が再び国を乱すことを恐れていたが、死去の報を聞き、「人が殺せなかった彼を、天が裁いた!」と歓喜した。その後、子孫は官職に就くことを禁じられ、恭譲王の即位後、その邸宅は跡形もなく取り壊された。明朝は長期間、李仁任を李成桂の父と誤認し、『大明会典』に記載していた。朝鮮王朝は度々使者を派遣し、『大明会典』の訂正を求め、これを宗系辨誣と呼んだ。1588年、明朝はついに『大明会典』で李成桂の父を李子春に訂正した。