恭譲王

From Wikipedia, the free encyclopedia

王朝 高麗
諡号 恭譲大王
恭譲王 王瑤
高麗
第34代国王
王朝 高麗
在位期間 1389年12月2日 - 1392年7月31日
諡号 恭譲大王
生年 至正5年2月5日
1345年3月9日
没年 洪武27年4月17日
1394年5月17日
王鈞
国大妃王氏
王后・王配 順妃盧氏
子女 下記参照
陵墓 高陵
テンプレートを表示

恭譲王(コンヤンワン、きょうじょうおう、王瑤 ワンヨ、おうよう(1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の子の襄陽公王恕の六代の孫。諡号恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に禅譲し、李成桂の命令で子供とともに殺された。

玄祖父は始安公王絪(襄陽公王恕の子)。高祖父は西原侯王瑛。曾祖父は益陽侯王玢。祖父は淳化侯王瑈。父は定原府院君王鈞。母は国大妃王氏。妃は昌成君盧稹の娘の順妃盧氏[1]

1374年に恭愍王が殺され、禑王(辛禑)が即位した。政界では倭寇(前期倭寇)平定に功のあった李成桂崔瑩らが台頭し、対政策における対立から、李成桂は1388年にクーデター(威化島回軍)を行い、禑王の子の王昌(辛昌)を即位させ、1389年には王昌は正当な王位継承者ではない偽王として殺害し、恭譲王を擁立する。

恭譲王3年(1391年)に科田法が公布される。また同年に楮貨流通政策が決定したが施行前に高麗王朝が滅亡する。

恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周[2]らは李成桂派に殺され、1392年に恭譲王は李成桂に王位を譲り[3]、杆城に追放となる。1394年に謀叛の計画があるとして、王命による刺客により配流先の三陟で子とともに殺された。また、高麗王室一族は、流刑中、乗っていた船を沈められてことごとく溺死した。こうして高麗王朝は滅亡し、李成桂による朝鮮王朝がはじまった。

家族関係

  • 父:定原府院君 王鈞(生没年不詳)
  • 母:国大妃王氏(生没年不詳)- 王族出身で、25代忠烈王の子の江陽公王滋の孫娘で、延徳府院大君王塤の娘。
  • 兄:定陽君 王瑀(?~1397年)
  • 妃:順妃盧氏(?~1394年)- 夫や子供達と共に殺害された。母方の祖母の慶寧翁主は王族出身で、24代元宗の曾孫娘。
    • 長男:定城君 王奭(?~1394年)- 父即位と共に世子となる。1391年に仁川李氏から世子妃を迎えているが、翌年に両親と共に殺害される。子女は無し。
    • 長女:粛寧宮主(生没年不詳)
    • 次女:貞信宮主(?~1421年以降)- 外孫女に李氏朝鮮4代王世宗の三男の安平大君の妻の迎日鄭氏。
    • 三女:敬和宮主(生没年不詳)

参考系図(高麗王第26代から34代まで)

脚注

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI