李仁福

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李 仁福(り じんふく、生年不詳 - 933年)は、末から五代十国時代にかけての軍人夏州定難軍節度使。もとの姓は拓抜[1]

経歴

代々夏州の牙将をつとめた家に生まれた。乾符年間、拓抜思恭が夏州節度使となった。黄巣の反乱軍が長安に入り、唐の僖宗に避難すると、拓抜思恭は勅命を受けて京城西北収復都統となり、反乱軍撃破に功績を挙げた。拓抜思恭が李姓を賜ると、仁福もまた李を氏とした。李思恭が死去すると、その弟の李思諫が後を嗣いだ[1][2]

後梁開平2年(908年)、李思諫が死去すると、夏州の軍はその子の李彝昌を留後に擁立した。ほどなく李彝昌は正式に夏州節度使に任じられた。開平3年(909年)春、牙将の高宗益らが反乱を起こし、李彝昌が殺害されると、ときに仁福は蕃部指揮使をつとめていたが、夏州の軍吏に迎えられて擁立された。その年の4月、後梁の太祖朱全忠により検校司空を加えられ、定難軍節度使となった。開平4年(910年)、晋王李存勗が大将の周徳威を派遣して邠州の軍5万と合流して夏州を攻めた。仁福は1か月あまり夏州を守りきり、後梁の援軍がやってきて、周徳威は退却した。仁福は太祖により検校太保・同平章事を加えられた[1][3]乾化3年(913年)、検校太師を加えられ、隴西郡王に封じられた[4]。のちに中書令を兼ねた[5]

後唐同光2年(924年)、仁福は朔方王に封じられた[6]長興4年(933年)3月、夏州で死去した。その年のうちに虢王に追封された[7][3]

子女

脚注

伝記資料

参考文献

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