周徳威

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周徳威

周 徳威(しゅう とくい、生年不詳 - 918年)は、末から五代十国時代にかけての軍人。字は鎮遠。小字は陽五[1]本貫朔州馬邑県

李克用に仕えて騎将となり、牙内指揮使に転じた。天祐5年(908年)、振武軍節度使・同中書門下平章事に任じられた。天祐7年(910年)、後梁が成徳軍節度使の王鎔を攻めた際、増援として少数の兵で赴き、梁軍を破った。その際に、「陳夜叉」の異名を誇る陳章を生け捕りにした。天祐9年(912年)、涿州を攻め落とした。天祐10年(913年)、燕の幽州を攻め落とし、劉守光は捕らえられた。その功により盧龍軍節度使となった。天祐14年(917年)、契丹による侵攻では幽州を二百日間防衛し、李嗣源の援軍まで持ち堪えた。李存勗に対しては、後梁への速戦を諫めたが、聞き入れられなかった。天祐15年(918年)、胡柳陂の戦いで周徳威は敵に包囲されその際、味方の潰走に巻き込まれ戦死した。太師の位を追贈された。

逸話

  • 「単無敵」と名高い桀燕の単廷珪を一騎打ちで捕虜にした。
  • その強さを恐れた朱全忠は「周徳威を捕えた者を刺史とする」という布告を出した。そのため配下の将の陳章は、周徳威を捕えようと白馬に赤い甲冑という目立つ格好で戦場へ出陣した。周徳威はこれを聞き、甲冑を脱ぎ兵士と同じ格好となり、陳章を馬から叩き落として捕虜にした。

子女

脚注

参考文献

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