李保殷

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李 保殷(り ほいん、生年不詳 - 929年)は、末から五代十国時代にかけての官僚法律家本貫河南府洛陽県[1]

唐の昭宗のとき、処士から太子正字に任じられ、銭塘県尉に転じた。浙江東道節度使の董昌に召し出されて浙江東道節度推官となった。河南府兵曹参軍に任じられ、長水県令・毛詩博士・太常寺少卿・端王傅を歴任した。入朝して大理寺卿となり、『刑律総要』12巻を編纂した。兵部侍郎の郗殷象と刑法のことを議論した。房州司馬に左遷された。後唐同光元年(923年)、殿中監に任じられた。法律に明るかったことから、再び大理寺卿となった。任期を満了せず、人の掣肘を受けた。病を理由に致仕して帰郷した[1]天成4年(929年)5月9日、洛陽で死去した[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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