李億祺
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初期の軍事活動
漆川梁海戦と戦死
釜山付近の日本軍への攻撃命令は宣祖自身によって発せられた。このような要塞化された日本軍への攻撃は、朝鮮水軍および政府内の一部から事実上の自殺行為とみなされており、李舜臣はこの攻撃命令に従わなかったために更迭された。宣祖朝廷内の党派争いの結果、同様に消極的とみなされていた元均が後任として任命され、作戦を実行することとなった。
1597年7月15日、元均は約200隻の艦隊を率いて出撃したが、草梁沖で待ち伏せしていた約1,000隻の日本艦隊に遭遇した。当時は夜間であり、夜戦に不慣れな元均および李億祺は、疲弊した水軍を率いて何度も退却を試みたが、日本軍の包囲は次第に完成していった。最終的に朝鮮水軍は漆川梁海峡へ追い込まれ、そこで日本水軍によって壊滅させられた。元均は逃走したが、李億祺は最後まで戦い続け、海中に身を投じて戦死した[3]。