李升培
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| 李升培 | |
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『満洲紳士録 第三版』(1940年) | |
| プロフィール | |
| 出生: |
1879年[1][2] [旧暦]光緒5年[3] |
| 死去: | 没年不明(1945年3月5日時点では存命) |
| 出身地: |
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| 職業: | 内務官僚・警察官僚 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 李升培 |
| 簡体字: | 李升培 |
| 拼音: | Lǐ Shēngpéi |
| ラテン字: | Li Sheng-p’ei |
| 和名表記: | り しょうばい |
| 発音転記: | リー・ションペイ |
李 升培(り しょうばい、1879年〈光緒5年〉 – 没年不明)は、清末民初の内務官僚・警察官僚。字は子栽[1][2][4]。清朝と北京政府においては、警察部門で官職を歴任した。中華民国臨時政府や華北政務委員会にも参加し、親日政権における山西派指導者・蘇体仁を支える側近と目されている。
初期の活動
1903年(光緒29年)、癸卯科挙人。1906年(光緒32年)廷試にて籤分。内閣中書、候選主事を経て、民政部高等巡警学堂簡易科を卒業。外城巡警総庁司法処科員、補五品警官、民政部衛生処僉事、同部行政処僉事などを歴任した[1][2][3]。
中華民国創立後は、北京政府内務部の警察部門で官歴を重ねていく。1913年(民国2年)1月、京師警察行政処処長に任命され、翌1914年(民国3年)には同庁司法処処長に移った[1]。同年7月、内務部で僉事と警政司第二科科長に任命される。以後、1921年(民国10年)4月まで警政司で各科長を歴任している。同年5月、内務部秘書処弁事となり、9月、内務部警政司司長署理となった。1923年(民国12年)、内務部参事室弁事となり、しばらくこの地位に在ったと見られる。1927年(民国16年)から1928年(民国17年)にかけて、内務部遊民習芸所所長、内務部礼俗司司長、壇廟管理処処長、内務部中央衛生会委員を歴任した[5]。北京政府崩壊直前には、内務次長代理部務兼京兆尹代理(1928年6月)もつとめている[3][注 1]。
蔣介石国民政府時代には杭州市公安局局長となり[2]、1937年(民国26年)時点では、河北省政府で菸酒税局分局長に在任したという[1]。
親日政権での活動
王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、李升培もこれに直ちに参与した。1938年(民国27年)の早い時期に、行政部(総長:王克敏)高等警官学校主任に任命されたという[3]。ところが同年6月に蘇体仁を省長とする山西省公署が成立すると、李は同公署へと転じ、秘書長として起用された[6]。以後、李は山西派の一員にして蘇の腹心と目されることになる。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。山西省公署については特段の改組もなく、李升培はそのまま公署秘書長に留任(重任)した。1943年(民国32年)2月、蘇体仁が華北政務委員会中央へ進出し、教育総署督弁に抜擢されている。これに合わせて李も蘇に随従し、教育総署秘書主任に任命された[7][8][注 2]。同年11月における華北政務委員会の大規模機構改革により、蘇が工務総署督弁へ横滑りすると、李も同様に工務総署秘書主任代理へと派出された[9]。
1945年(民国34年)3月、蘇体仁が華北政務委員会総務庁庁長に異動したため、李升培は工務総署秘書主任代理から免職されている[10]。これは別途任用を予定する辞令であったが、その後の地位について『華北政務委員会公報』で確認ができず、李の動向も不詳となる。なお、李が漢奸として摘発されたとの情報は見当たらない。